鏡花水月抄 書評|久保田 淳(翰林書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年11月18日 / 新聞掲載日:2016年11月18日(第3165号)

鏡花水月抄 書評
核心が捉えきれない 「もどかしさ」の魅力

鏡花水月抄
出版社:翰林書房
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鏡花水月抄(久保田 淳)翰林書房
鏡花水月抄
久保田 淳
翰林書房
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職業柄、学生たちから、一番好きな作家は誰かと問われることが多い。大概は、ただ一人に決めることはできない、とはぐらかすことにしているが、内心ではまずこの人と思っているのが、泉鏡花である。しかしながら、あまり研究対象としたことはない。読後感を研究などで変質させず、いつまでも純粋な一愛読者でいたいからである。

著者は、中世文学、特に和歌文学の研究者として高名であるが、「日本古典文学の研究に従事し、鏡花の気儘な読者にすぎないわたくしは、時にはつい商売気を起して、鏡花世界から古典文学の影を探ろうと思ったりする。(略)しかし、そのような目に見えた影響関係を抑えることが、果してどれほど有効であろうか。もっと、根本的、本質的な処で、鏡花世界は古典文学の世界と繋がっているのではないであろうか。」(「鏡花世界小見」)と述べ、やや複雑な距離感をもって鏡花を読もうとする。

研究とは、言うまでもなく、何かを明確にすることを重視する作業である。しかし、鏡花文学の何かを明らかにしたところで、いったい何が「分かる」のであろうか。この、鏡花文学を読むことの本質への根本的な問いこそ、著者が立ち向かっているものであろう。

このことは、本書の題名に端的に認められる。鏡に映った花や、水面に映る月のように、鏡花文学は、手が届きそうで、届かない、独特の魅力を持つ。著者は、古典文学の該博な知識と、演劇や音楽の鑑賞からもたらされた感覚を駆使して、鏡花文学の本質に執拗に迫らんと見せて、その一方で、何かが「分かる」ことを最初から放棄しているようでもある。「あとがき――鏡花水月を求めて」に著者自身が書くように、鏡花の作品世界は「変幻自在」である。著者は、「中高生の頃いわゆる鏡花世界に迷い込んでから、折に触れて鏡花の作品を読んできた」が、「今以てその核心を捉えることができたなどとは思っていない」のである。

三部からなる本書の「Ⅰ論文風のスタイルのもの」は、一三章立てで、本書全体の三分の二の分量を占める。冒頭の「鏡花世界小見」は、本書全体の序章の役割を果たしている。その他の章は、当初はさすがに、能をはじめ古典文学や音曲などとの関連を扱うものが多いが、やがて男女の恋愛のかたちの論へと比重を移す。鏡花作品は「三百余篇」もあるが、著者が扱う作品には、偏愛の跡が見られる。例えば「泉鏡花が描いた恋愛の姿」に引用される『木の子説法』の、お雪が自らの乳首を噛み切る場面や、『外科室』の、医者高峰がメスで貴船伯爵夫人の「乳の下深く〓切」る場面、また『唄立山心中一曲』の、縫子がピストル自殺する場面などは、他の章でも重ねて論じられている。ここにおいては、古典文学との関連は背景化され、著者の真の興味の在処が前景化されている。

一方、「Ⅱエッセイ風のもの」に収められた七章においては、鏡花作品における土地の魅力が繰り返し語られる。「明治の東京寸景」の末尾に至っては、「いつか、自分のためだけの「鏡花作品東京地誌」を作りたい――そんなことを夢想している。」とまで書かれているが、さらにそれは「鏡花作品地誌」にも発展するテーマであろう。

また「Ⅲコラム風のもの」は、四章のごく短い部であるが、著者の日常が少しずつ顔を出していて、終章の役割を果たすとも見える。

以上のとおり、一見、これまでの論考やエッセイを形式によって分け、年代順に集めた文集のようでありながら、読み終えてみれば、鏡花独特の恋愛観ばかりを抜き出した書とも、特定の風土をめぐる物語とも、また、鏡花文学を補助線とする、自己語りの書とも読める。鏡花への著者のアプローチもまた、「変幻自在」と言えようか。
この記事の中でご紹介した本
鏡花水月抄/翰林書房
鏡花水月抄
著 者:久保田 淳
出版社:翰林書房
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