外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」 もうひとつの〝東大闘争〟早大第三次闘争と73年9月の”3連戦” 「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑬|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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もうひとつの〝東大闘争〟
更新日:2019年8月23日 / 新聞掲載日:2019年8月23日(第3303号)

外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」
もうひとつの〝東大闘争〟早大第三次闘争と73年9月の”3連戦”
「東大反百年闘争」の当事者・森田暁氏に聞く⑬

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外山 
 そもそもどうして駒場は、革マル派と解放派が強かったんですか?
森田 
 それは……革マルというのは、いかにも勉強好きの東大生に向いてるような気がするんですよ。解放派はどうしてかなあ。あそこもほんとに、駒場が一大拠点だったんですよね。解放派というのは、トップの佐々木慶明(滝口弘人)さんは外語大だけど、殺されちゃった中原一さん(笠原正義。七七年二月に革マル派に殺害された)が東大出身ですから、それもあるんじゃないかと思う。基本的には解放派は〝東大と早稲田〟の党派だったんです。だけど早稲田も早い段階(六八年一二月)で革マル派に暴力的に追い出されちゃうでしょ。人数的には法政が一番多かったんだけど、法政ではやっぱり中核派に圧倒されちゃってね。千坂(恭二)さんの知り合いで、Kさんって人がいるじゃないですか。彼がもともと解放派なんで、最近は彼にいろいろ話を聞くんですけど、結局、「あの頃は解放派はどこにでもいたからなあ」って。中核派なんて法政にしかいない。法政で毎朝、キャンパスの獲り合いをやってたらしいですよ。解放派が先に占拠して中核派を入れないようにしてたら、中核派は必死になって塀をよじ登ってくるらしい。そういうしょーもない争いを繰り広げてたそうです。……駒場は何といっても安保ブントの発祥の地ですから。本郷じゃなく、駒場なんです。だけど六〇年代を通して駒場のブントはだんだん弱っていって、ついに消滅しちゃったっていう、その瞬間ですよ、ちょうどぼくらの頃が。

実はKさんというのが、ブント系の最後の駒場の責任者で、彼が革マル派から追放宣言を受けて、それでさすがに運動を離れちゃってね。それから数年……二年しかかからなかったのかな。彼はもともと理Ⅰで、つまり理系なんですよ。それが革マルに追い出されて東大を中退しちゃって、(革マル派のいない本郷の)法学部の講義を二年ぐらい〝盗聴〟して、司法試験に通って弁護士になる。しかしその後も、本人の弁によれば、東大ノンセクトの面倒を見てたらしいです。とくに、〝山中湖事件〟〔註1〕というのがあって、それはご存じですか?
外山 
 大雑把には……。いつの事件でしたか? 八〇年代半ばですよね。
森田 
 八四年四月です。ぼくも葬式には行ったんですが、亡くなったひとりであるS・Tというのはほんとに優秀な、希望あふれる活動家だったから……なんであんなことになっちゃったんだろうと思いますよ。しかしあれもオリエンテーション委員会の公式の行事だったはずです。
外山 
 駒場のノンセクト運動は、その方が亡くなってしまったあと、かなり弱体化しちゃったとも聞いてます。……話が前後しますが、七二年の暮れ頃から七三年半ばぐらいまで、早大の第三次闘争がものすごいことになるじゃないですか。それもやっぱり、東大の駒場の状況にも影響があったりしますか?
森田 
 民青は当然〝革マル糾弾〟のビラを出しますよね。だけど本当はぼくらが一番、川口大三郎君と立場は近いわけです。それに駒場の場合、これまた当然、高校生活動家上がりの奴もいっぱいいて、彼らは早稲田や慶應にも運動つながりの友達がいっぱいいたりする。それはよく分かってるんだけど、革マルに一度恫喝されると、もう身動きとれない状態になっちゃうんですよ。革マルへの批判なんか一言も書けません。他の当たり障りのない〝政治課題〟のことしかビラに書けない。それはみんな忸怩たるものがありましたよ。だけど一切、早大の支援活動みたいなものはできなかった。あの時、慶應はすごいんです。早稲田と慶應のノンセクトが合同で、川口君虐殺糾弾の集会をやっています。ぼくもそういう学外のものであれば、ワック(早大行動委員会。革マル派追放闘争のノンセクト部分)の集会にはいつも行ってて、たしか大井町のかなりでかい場所でやったんだったと思う。
外山 
 当時はまだ慶應にもかなり学生運動は残ってるんですか?
森田 
 ええ、慶應はすごかったですよ。やっぱりぼくらと同じだと思います。つまり全共闘を高校生の頃に〝見てた〟世代の人たちですね。生粋の〝活動家〟というより、ニュースなんかで見てて、「オレも大学に入ったらやろう」と思ってたような連中が、大量にいた時期なんでしょう。そういう連中は、早稲田とか慶應とか東大とかに入るから。とにかく〝お祭り〟を自分たちもやりたい、っていうね。だいたい似たような層で、同じ高校からそれぞれ東大や早大や慶應に進むわけでしょ。たぶんそれで「早慶連帯集会」なんて企画も、やろうと思えばすぐやれるわけです。……たしかあの時は、七三年の春先に解放派が早稲田のキャンパスに乗り込んで、ゲバで革マル派に勝ってて、それも一回じゃなくて二回も三回も勝ってるんじゃないかな。最終的には九月に〝三連戦〟というのがあるんです。順番は正確には忘れちゃったけど、最初は鴬谷の駅で、中核派と革マル派の集団同士がぶつかったんだと思う。これはべつに〝ゲバ専門部隊〟ではなくて、〝大衆部隊〟だったんで、ぼくもそういう場合には時々参加してたから、行ってた可能性もあったんですよ。たまたまその時は何かの用事で参加してなかっただけなんですけど、参加しなくてよかったです。革マル派に百人ぐらい叩きのめされちゃったみたいでね。それから、これはもう、もっと壮絶な争いで、神奈川大学で解放派の基幹部隊が全滅しちゃったという衝突がありました。そしてもう一つは新宿の三越デバートの屋上で、早稲田のノンセクト部隊が革マルに襲撃されてます。この三連戦でもって、革マルは早稲田の支配権を再確立するんですよ。
外山 
 それが七三年の……。
森田 
 九月ですね。一四、一五、一六日だったと思う。
〈次号につづく〉

〔註1〕山中湖での新入生歓迎のオリエンテーション合宿をやっていた東大生が、夜間に酒を飲んだ状態でボートを漕ぎ出し、転覆して五名が死亡した事件。
【編集部より】本稿は、森田暁氏の記憶に基づいたものです。当時の情報は編集部までご一報下さい。info@dokushojin.co.jp
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