七つのからっぽな家 書評|サマンタ・シュウェブリン(河出書房新社 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年8月24日 / 新聞掲載日:2019年8月23日(第3303号)

七つのからっぽな家 書評
心の通い合いという事故
コミュニケーションの回路(サーキット)に入り込めない人々

七つのからっぽな家
著 者:サマンタ・シュウェブリン
翻訳者:見田 悠子
出版社:河出書房新社
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 現代にあって、完全な、破綻のないコミュニケーションが続いているかぎり、誰かとの出会いは果てなく先延ばしにされる。場にふさわしい言葉と振る舞いとで本心を包み隠し、人と人のあいだにあるべき中立地帯を越えて相手の領分に踏み込まないよう、わたしたちは行き届いた作法を身につけている。コミュニケーションが円滑に機能しているかぎり、傷つけることも傷つけられることもなく、迷惑をかけることもかけられることもなく、穏やかに生きていくことができる。

そのような世界では、他者と出会うこと、恋愛感情を抱くことは、コミュニケーションが綻びるところで、一種の事故としてしか生じえないのかもしれない。一九三七年生まれのフランスの哲学者アラン・バディウの目には、現代の若者たちが出会い系のサーヴィスに走るのは、偶然の出会いという傷を負うことを避けるためであると映りさえした。

アルゼンチンの奇才、サマンタ・シュウェブリンの二〇一五年の短篇集『七つのからっぽな家』に出てくる人びとはみな、現代社会を巡っているそのような完璧なコミュニケーションの回路にうまく入り込むことができず、相手との距離は遠すぎるか近すぎるかのどちらかとなる。たとえば、短篇「出る」に登場する、エレヴェーターで出会った男になぜか同行する女は、「コミュニケーションの距離を取り戻そうとして少し近づく。彼の助けになるようにと少しゆっくり歩いたけれど、彼が先に進んで離れてしまい、結局彼が立ち止まる」ことになる。

最初の短篇「そんなんじゃない」に出てくる母親は、娘を連れて住宅地を車で巡るという奇癖を持っている。他人の家に隠されているように見える、「からっぽ」の自分の家に欠けている幸福の秘密を探ろうとするかのように振る舞うが、それは、美しい芝生に車で侵入し、謝らなければならない場で体調が悪いと言って家の中に入れてもらうという、文字通りの事故を介してである。遠すぎるところから近すぎるところへの移動が、他者との距離を縮める過程を経ずに、衝突事故を起こす。

あるいは、フアン・ルルフォ賞を受賞した短篇「不運な男」では、語り手が八歳の少女だったとき、三歳の妹アビが洗剤を飲んだため、両親とともに慌てて病院へ向かう。車が途上で渋滞に巻き込まれ、父親は何を思ったか長女にパンツを脱げと命じ、その白いパンツを窓から突き出して振り回す。病院の廊下で隣り合わせた男は、彼女がパンツをはいていないことを知ると、ショッピングモールまで連れていってパンツを試着させ、そのまま外に出る。そのとき少女の方から男の手を取る。駐車場で警官たちが男を取り押さえ、少女の両親が怒り狂っているあいだ、少女は男がこっそりと自分の名前を書いて渡した紙切れを、慈しむかのように、飲み下す――。孤独な者同士の心の通い合いは、シュウェブリンのこの世界では、社会規範からは許されるはずのないものとしてしか現れない。

最初に置かれた「本当に近しい二人の人間なんて知ってるの?」というアンディ・ウォーホルの著書から引かれた言葉に示されているように、シュウェブリンは一貫して世間で「真の愛」と信じられているものの存在を再考に付している。一見奇行にしか見えない振る舞いをする人物ばかりが現れるこの短篇集はもしかすると、型にはまった愛のあり方や人と人との近さからは外れる、事故としての、傷としての心の通い合いの可能性を問いつつ、優しさの別の形を模索しているのかもしれない。
この記事の中でご紹介した本
七つのからっぽな家/河出書房新社
七つのからっぽな家
著 者:サマンタ・シュウェブリン
翻訳者:見田 悠子
出版社:河出書房新社
以下のオンライン書店でご購入できます
「七つのからっぽな家」出版社のホームページはこちら
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