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更新日:2019年8月23日 / 新聞掲載日:2019年8月9日(第3301号)

文芸スクラップ&ビルド   山崎ナオコーラ「リボンの男」、ふくだももこ「おいしい家族」

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文芸はある時期から非常に危うい橋を渡り歩くようになった。それが何故なのかは知らない。資本の問題なのかもしれない。いずれにせよ、文芸がハイカルチャーとして、王様然とできる時代は終わりつつあったのは確かである。

だが、今、もう一度、文芸が息を吹き返そうとしている。リニューアルした『文藝』秋季号がその仕掛け人となっている。文芸誌を手にとって、これほど胸踊る経験が、またできるとは。今回の特集は「韓国・フェミニズム・日本」。韓国の作家と日本の作家が共同して刻むビートには、寝ぼけた頭を叩き起こす強烈なグルーヴ感がある。深緑野分が差別を内在化させた日本社会の空間を解体しようとすれば、パク・ミンギュが底抜けに明るい終末観を描く。星野智幸が韓国社会のホモソーシャルな紐帯の危うさを露わにすると、ハン・ガンが大切な人を失った悲しみを彼女一流のヴォイスに乗せて表現する。質量ともに確かな重さがある特集となっている。

特集から外れたページに目を向けると、山崎ナオコーラが真摯に社会と向き合った小説を書いていることに気づく。「リボンの男」は、主夫として働いている妹子こと、小野常雄と、そのパートナーで、一家の経済的な大黒柱であるみどり、そして二人の息子で三歳になる幼稚園児のタロウ、の仲睦まじい家庭の、なんでもない生活を描いている。妹子は、何かにつけ、じぶんの主夫としての行動を時給換算する。例えば、物語の舞台となる東京郊外の川に百円を落としてしまった場合、「時給マイナス百円の男」といった具合に。

こうやってじぶんの日々の行いを経済活動として数値化することで、彼は「どうも世間から責められている」という被害妄想から逃れることができるのだ。小説は、小さな世界で、堅実に消費をする妹子が、その外側に存在する大きな社会と、どうつながりを持つことができるのかという、新しいコミットメントのあり方を模索する。作者は、最近(例えば『趣味で腹いっぱい』などで)凝り固まった家庭像を壊そうと試みているが、本作は、その一つの到達点なのだろう。

凝り固まった家庭像を壊そうと試みる作品といえば、ふくだももこ「おいしい家族」(『すばる』)も、そう。小説の舞台となるのは、都心からずいぶんと離れた小さな島。ここに、島を離れて暮らしていた「私」が帰ってくるところから物語は始まる。「私」が帰郷すると、そこには目を疑う光景が広がっていた。亡くなった母の格好をした父が、新しい家族を連れて、待っていたのだ。父は新しい家族の母になりたいと言いだす。「私」は、戸惑う。読者も戸惑う。だが、このガラパゴスな空間では、地域共同体のみんなが祝祭的な雰囲気を纏わせて、この家族を受け入れる。このギャップが本作の魅力だろう。作者はこの島を、ある種の理想郷として描いている。それは旧来の家族像が壊れた先にあるユートピアだ。そこでは、家族は必ずしも「恋愛的」な結びつきを必要としない。漸く、ポスト近代のあるべき家族像を描く小説が現れた気がする。小説の力とは、そのような既存の概念を打ち壊すためにあるのだ。

村上春樹の短編「ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles」と「ヤクルト・スワローズ詩集」(ともに『文學界』)について。記憶障害を持ったかつてのガールフレンドの兄と「僕」の関係性から浮かび上がる不在の感覚をめぐる物語と、小説家としてデビューしたばかりの頃を回想した私小説的な物語だが、私は前者をつまらない、と思い、後者をそこそこ面白い、と思った。この両者にある違いはなんだろう。前者は、とてもテクニカルな物語となっているのだが、隙がない。後者は、自虐的なネタを随所に放り込んだ、隙のある作品となっている。小説は、読者がツッコミを入れられるような隙がなければ、読んでいても、作者によって誘導されている感覚がして、窮屈だ。後者には隙がある。それが良い。隙のある物語を、村上春樹にはもっと書いてほしい。
(ながせ・かい=ライター・書評家)
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