外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」 もうひとつの〝東大闘争〟 〝銀ヘル〟支援のための全国集会 批評家。著書に『未完結の問い』(大西巨人との共著)。一九六三年生。|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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もうひとつの〝東大闘争〟
更新日:2019年8月30日 / 新聞掲載日:2019年8月30日(第3304号)

外山恒一連続インタビューシリーズ「日本学生運動史」
もうひとつの〝東大闘争〟 〝銀ヘル〟支援のための全国集会
批評家。著書に『未完結の問い』(大西巨人との共著)。一九六三年生。

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森田 
 七三年九月の革マル派による襲撃事件があった後の、早稲田祭の時、ひとつ重要な出来事があって、ワック(革マル派追放闘争のノンセクト部分)が最後の闘争として図書館に立てこもるんです。当然これは機動隊が入って排除される。あの時のワックの中心的なメンバーたちで、最後の闘争までずっと残ってた面々のことを、彼らは、〝図書館〟って云い方をするみたいですね。「ひしょう」(長谷百合子が経営していた新宿ゴールデン街のバー)にも「図書館」ってボトルを入れてあった。だけどそのうちの何人かに、ぼくはひどく嫌われちゃってて……。みんな結局、早稲田の大学教授になったりしてる連中です。そうそう、『世界』の元編集長がワックのトップでしたね。
外山 
 へー、そうですか!
森田 
 前の前の編集長だったかな……?。
外山 
 で、まあ民青はともかくとして、駒場でも民青以外の部分は革マル派に追い出されてしまう、と。それが早稲田の例(外山『全共闘以後』第四章第5節参照)と同じように、部落研とかを足がかりにして……。
森田 
 ええ、部落研が、存続できたのは間違いない。部落研は革マルにも潰されてませんからね。第七本館のノンセクトは本郷に退避するのですが、部落研メンバーはそのまま駒場に登校できたようです。
外山 
 そういう形でノンセクトが駒場にも復活してくるのは、いつ頃なんですか?
森田 
 空白期間は一年もないですよ。七四年の秋に制圧されて、七五年には動きが出始めて、七五年の秋口にはもう……。その時に、やっぱり日学戦が大きな役割を果たしたと思います。〝日学戦〟という形でまとまる方向に行って、キャップのKもなかなかいい奴だったし、でも、どうも何か裏がありそうだ、ということになってしまった。東大生は〝誰かに支配される〟のはイヤですから。
外山 
 さきほどの話からすれば、〝既成の党派はイヤなんだけど、党派志向のあるノンセクト〟だったわけでしょ。そこに日学戦という新鮮な感じの党派が登場して、そっちに行きかけるんだけど……。
森田 
 日学戦がドジをやったということでしょう。
外山 
 怪しい背後関係がありそうな雰囲気が、つい出てしまってた、と。
森田 
 そこらへんのところも、『情況』(二〇一八年秋号)に市田良彦君が書いた回想記に出てきますよ。
外山 
 そうでしたっけ? ちゃんと読んだんだけどなあ。
森田 
 日学戦は京大の同学会も乗っ取ろうとして、失敗したという話が書いてありました。そういう、ちょっとドジなところがあるんです。
外山 
 〝反原理〟のほうは、どんな経緯で始まるんですか? そもそもいつ頃から原理研の存在が目につき始めるんですか?
森田 
 それはぼくらが入学した頃から、ウロウロしてましたよ。
外山 
 七〇年代初頭にはもういるんですか?
森田 
 でもその頃は、単に無視してたんです。〝反原理〟が運動課題になるのは、要は他の運動課題がなくなったからでしょう。そういうわりと単純な話だと思います。七〇年代って、課題としては圧倒的に〝狭山、三里塚〟だったんですよ。一九七二年秋の相模原闘争の後は、全国集会といえば、狭山闘争で定期的に集会があって、三里塚闘争で定期的に集会があるっていう、そういう状況。三里塚はとくに〝鉄塔〟を守る闘いがあって、その果てに、〝3・26〟開港阻止決戦があるわけです。そこから後は……まあいろいろあるにはあったけど、〝反原理〟が課題になるのは、一九七〇年代後半になって、からじゃないかなあ。たしか、その次の大きな波が反原発ですか。チェルノブイリ事故(八六年)の後、反原発運動に火がつく(八八年)までは、まさに〝原理研〟が焦点だったんですよね?。いや、もうちょっと早かったか。〝3・26〟より以前、七〇年代の半ばぐらいから〝反原理〟は云われてたような気もします。ともかく駒場にも「反原理共闘」というのが作られて……ん? おかしいな。七五年ぐらいの時点ではすでに〝反原理〟はテーマになってたのかな。ぼくが駒場から本郷に移る前にもう……。
外山 
 たしか七三、七四、七五年とか、そのあたりでもう例の「反憲学連」〔註1〕が登場してくるでしょ?
森田 
 そうだそうだ。反憲学連との対決がメインになってたのが、日大・文理学部なんです。
外山 
 そうらしいですね。
森田 
 日大文理で活動していて、〝アウシュビッツ体制〟を突破したという闘争の話を、Yさんという人が最近書いてるらしいんです。書き上がったら読ませてもらおうと思ってるんですが、彼は七四年には就職しちゃう人なんで、ちょうどその頃に日大に反憲学連が登場したのかもしれない〔註2〕。それで反憲学連と対峙してた〝銀ヘル〟〔註3〕を支援するための全国集会というのもあって、ぼくも一度だけ行ったことがあります。一九七四年か五年だったと思いす。その時はなぜか駒場ではなく本郷から人を出してて、「文学部行動委員会」のSっていうのが挨拶をしてました。なんか〝東大〟って、集会とかで〝最初に挨拶してもらう〟って時に便利じゃないですか。L行なんて運動実態なんか何もないのに、なぜかSが最初に挨拶してたなあ。
外山 
 そうか、銀ヘルとかがちょうど最盛期だった頃と、ギリギリ重なってるわけですね。
森田 
 日大では銀ヘルがその後ずっと一〇年間ぐらい、八〇年代の半ばまで続くんですよ。銀ヘルも何か特殊な〝徒党〟みたいな感じで、どういう経緯で登場したのかよく分からないんですけど……。 〈次号につづく〉
〔註1〕反憲法学生委員会全国連合。七四年三月結成。
〔註2〕日大学生ジャーナリスト会議『日大を許さない』第三書館(一九八三年)によれば、八〇年代に入るあたりのことだという。
〔註3〕八〇年前後に存在感があったという日大文理学部の「全文理連絡会議」の通称。
【編集部より】本稿は、森田暁氏の記憶に基づいたものです。当時の情報は編集部までご一報下さい。info@dokushojin.co.jp
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