大島渚 寄稿  政治主義“芸術論”の正体 ――日本映画の今日の状況から 『週刊読書人』1963(昭和38)年7月22日号 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年9月1日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第485号)

大島渚 寄稿
政治主義“芸術論”の正体 ――日本映画の今日の状況から
『週刊読書人』1963(昭和38)年7月22日号 1面掲載

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1963(昭和38)年
7月22日号1面より
三年ぶりでようやく陽の目を見た「日本の夜と霧」の再上映は、ごく小さな劇場での短期間のものであったが、少なからぬ反響をよびおこした。いわゆる“政治と文学”論をめぐる論争が続いているなかで、この映画の再上映をめぐるさまざまな反響は、この論争を文学の問題から他のジャンルにまで拡げる一つの素地をつくり出したといえよう。
政治主義とモダニズムとの両極をたえずゆれ動きながら、不毛の地をさまようわが国の芸術運動の批判と、その問題状況とを、「日本の夜と霧」を監督した大島渚氏に執筆してもらった。(編集部)
第1回
芸術運動内部の“敵”は何か

一九六一年三月号、当時活発であった雑誌『記録映画』は、現代モダニズム批判と題する特集を行いましたが、私も「芸術運動とモダニズム」という文章を書いています。この文章の大部分は、花田清輝および当時まだ余命を保っていた『現代芸術』の私に対する言いがかりを論破したものですが、その最後に、私は、仮説として次のように書きました。

一、現在の日本の芸術運動の内的な最大の障害は、芸術における政治主義が支配的であることである。それは、芸術は直接に政治効果を持たねばならぬとする考え方であり、また例えば、労働者がつくったものだからすべてよいとする考え方である。

二、現在の芸術運動における前衛の最大の役割は、そうした政治主義をうちやぶることであり、それを通じて以外、真に大衆的基盤を持つ芸術運動の前進はありえない。

三、政治主義の誤りを知りながら、、、、、、それと十分に戦わない一群の人々が芸術運動の内部にいる。彼等は、一方において政治主義と政治的権威に屈服し、それゆえに大衆的な基盤を持つ芸術運動に主体的にはかかわりえないことから、一方において芸術運動と無縁なモダニズムと野合し、彼等自身モダニズムに転落する。そして、真の芸術的前衛に対する誹謗を事とする。

四、そうしたモダニズム傾向は、芸術運動の外的な最大の障害である商業主義の中に、彼等が没入して行くことで強化される。売らんがためが彼等の最大の目的となり、その場合、彼等が一応芸術運動内部にあり、政治主義に屈服する形で実は運動に主体的にかかわらず、単なる批評、、、、、をふりまわすことが、彼等の商品となる。

五、現在の芸術運動における前衛は、運動の具体的な各局面に自ら主体的にかかわらず、抽象的一般的な議論をくりかえすことによって自らを商品化し、運動内部において運動の障害となっているモダニズム的傾向と徹底的に戦わなくてはならない。それは自らの内部のモダニズム的傾向と戦いつつ、芸術における政治主義を真に克服して行くことである。

これを書いてから、丸二年半にもなる今日、今なおこれが十分に通用する状勢判断の上に立った戦略論であることを確認しながら、ここに再録しなければならないことは、再映された『日本の夜と霧』が今なお十分のアクチュアリティを備えていることと併せ、私にとってはいささか悲しいことです。しかし、悲しんでばかりはいられません。この文章は安保闘争以後の日本の芸術の状況をある程度予見して書いたものですが、事態は明らかに私が予見したより少しづつ悪くなっているようです。それは、少なくとも表面的には、芸術における政治主義とモダニズムはそれぞれ狂暴な形で日本の芸術を溶解しつつあるように見えるからです。私の属する映画の場においてそれらがどのような形であらわれているかを調べて見ましょう。
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