古田徹也氏ロングインタビュー 運に向き合い、倫理を問いなおす 『不道徳的倫理学講義』(ちくま新書)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年9月6日 / 新聞掲載日:2019年9月6日(第3305号)

古田徹也氏ロングインタビュー
運に向き合い、倫理を問いなおす
『不道徳的倫理学講義』(ちくま新書)刊行を機に

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東京大学准教授で哲学・倫理学を専門とする古田徹也氏が、『不道徳的倫理学講義――人生にとって運とは何か』(ちくま新書)を上梓した。人が生きていくなかで避けがたく存在する「運」の意味を詳細に検討し、「運」と道徳との複雑な関係を取り込みながら西洋の倫理学・倫理思想史を跡づける本書について、その構想を含めて幅広くお話しいただいた。         (編集部)
第1回
運と道徳の関係に関心/倫理学史の外部の視点

――本書の構想はいつごろからあったのですか。
古田 徹也氏
古田 
 現代的なテーマとしての道徳的運(moral luck)というものに関しては、昔からずっと関心がありました。自分のはじめての単著『それは私がしたことなのか――行為の哲学入門』(新曜社、二〇一三年)でも、とくに第三章で、運をめぐる問題を主題的に扱っています。運に日々翻弄されている人間が、意のままにならないこの世界でどう責任を取りうるのか。あるいは、そもそも責任を取るべきなのか――そういった問題を考えたわけです。ただ、内容はどうしても限定的なものになりました。何より、その本のテーマは「行為」でしたから、行為をめぐる運の問題に話題を集中せざるをえなかった。ですので、本を書き終わる頃にはもう、未消化の部分が気になりはじめました。たとえば、今回の本で取り上げた「サバイバーズ・ギルト」の問題などですね。そういう、自分のなかでまだくすぶっていたもの、もやもやしていたものが、今回の『不道徳的倫理学講義』の種になったような気がします。

それから、前著の『それは私がしたことなのか』では扱う題材や議論を現代の倫理学の範囲に絞らざるをえなかったわけですが、この点も自分では気になっていました。それよりもっと広い視野で運の問題をとらえ直したかった。運と道徳の関係をどう捉えるかというのは、現代の領域に局限するにはあまりに根が深く、それこそ、倫理学というものの成り立ちやその展開自体に深く関係しているのではないか、という思いが次第に強くなっていったんです。

さらに、職業的というか、実践的な意味合いもあります。自分は大学で西洋の哲学史や倫理学史を講じる機会が多いのですが、この種の授業にはシリアスな問題があります。それは、まあつまらないということ(笑)。教職科目だったりすると、まんべんなく歴史をたどる必要がどうしてもあります。教える側も飽きてきますが、学生の方も退屈と感じる人は多いでしょう。必修だからしょうがなく授業をとっている、という場合はなおさらです。たんに時系列順に「ソクラテス、プラトン、アリストテレス……」というふうにやっていくだけだと、なぜこれを知らないといけないんだと、ピンとこないも当然です。なので、何かひとつ軸になるようなテーマを定めて、それをめぐってみんながどういうふうに考えてきたのかという点をたどる方が面白くなるのではないか。自分自身の問題とか、自分がいま生きているこの時代や社会の問題にひきつけて、学生が興味を持続させつつ倫理学の歴史をたどれるようにしたい。そういう目論見もありました。

そして、「運」は、実際に講義をやってみて手応えがあるテーマでした。学生たちは、自分の人生に運がついて回っているということを本当に深く実感していますから、さまざまな倫理学者の議論を、自分に身近で切実な問題として受けとめてくれたのだと思います。ほかのテーマでも倫理学史をたどる授業をしたことがありますが、なかでも訴求力は「運」が一番でした。

 ――「運」について過去の哲学者や古代ギリシアの文学作品がどう語ってきたか。その縦串(軸)を通して、より豊かに通史が見えてくる気がしました。
古田 縦串があると、たんに倫理学史の内部だけではなくて、それこそ神話とか文学といったものとのつながりや対比のようなものもしやすくなります。倫理学史を全体として見るには、その外部からの視点も必要です。「運」や、関連する「運命」という概念は、哲学や倫理学という分野が確立される以前の神話・文学の領域とも深く関連しますので、そうした外部の視点を導入するためにも格好のテーマなんですね。

――冒頭の『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(秋本治著、集英社、第60巻)の両さんの「人生すべて博打だぞ」の言葉で引き込まれます。自分にとって「重要な何かのために、一般的に非難を受けるような不道徳的な行為を敢えて選択するリスクを冒す」(311頁)例も切実に感じられます。
古田 
 切実だし、みんな心当たりがあるにもかかわらず、大っぴらに言っちゃいけないというのがある(笑)。これは不思議といえば不思議なことです。「人生すべて博打だぞ」とか、「人生はギャンブルだ」などと言われると、なにか反発したくなる部分が一方にあって、だけれど、「人生は博打なんかじゃない」とか「人生をギャンブルと言うなんてふざけている」とたしなめられたりすると、それはそれでなにか反発したくなる。ある種の欺瞞をそこに感じる。たとえば両さんも、よくできた後輩たちから、「そう思って生きているのは両ちゃんだけよ」、「みんなはギャンブルと思ってませんよ」とたしなめられるわけですが、そう言われると両さんを擁護したくなります(笑)。人が「あるべき生」について考え、道徳や倫理について言挙げするとき、運というのは厄介者として扱われがちです。あるいは、たんにその存在を無視されがちです。だけど、そういう態度自体に自分は欺瞞を感じる。

私自身、人生はギャンブルだとそのまま肯定しているわけではありません。どちらにイエスといってもノーといっても、釈然としないものが残る。そういうテーマだと思います。ただ、相対的には、運の存在の方が気になる。人生には運がついて回ること。人生には賭けの側面があること。現実の生活を見ても、あるいは文学、映画、漫画等々を見ても、この厳然たる事実をめぐる切実な例に満ちあふれています。にもかかわらず、たとえば自己責任論を振りかざす人とか、あるいは、この世界が「公正な世界(just-world)」であることを疑わない人は、この世に運など存在しないかのように、人生や社会について語っている。そのことに、私はどうも居心地の悪さを覚えるんです。

この世界は因果応報や自業自得といった秩序が行き渡っている世界であって、努力した者には相応の報酬が与えられる。善き人には善き報いが、悪しき人には悪しき報いがある。――私たちはいつの間にかそう考えがちです。これは、社会心理学の用語では「公正世界仮説」とも呼ばれる思い込みですね。そういう「公正な」世界は理想と言えるかもしれませんが、現実ではありません。けれども、現実と見なしてしまったとき、人は、そのあるべき予定調和の世界に沿うように、おのずと現実を歪めてしまおうとするわけです。たとえば、「善き人が理不尽に悪い目に遭ってはいけない。だから、悪い目に遭ったとすれば、その人に何か悪いところがあったのだ」と考えてしまう。その結果として、咎なき人に対していわれなき理不尽な非難を浴びせることにもなる。

たとえば、園児が歩いているところに車が突っ込んだ最近の痛ましい事故でも、ネット上などではすぐに、「保育園側が園児たちを集団で歩かせていたことに問題があったのではないか」という非難が向けられました。スクールバスの殺傷事件でもすぐに、「生徒や保護者たちがバス停周辺で騒いでいたからだろう。彼らにも責任がある」という声が次々にあがる。結局、犯人は周辺住民でもなんでもなかったわけですが、非難を向けた匿名の人たちはもちろん、自分の間違いを認めて謝ったりはしない。人々が自分自身のことは度外視して、安全なところから他人の落ち度を見つけ、非難しようとするとき、「公正世界仮説」はまったく不道徳な役割を果たします。「自己責任」という言葉も同じように、咎なき人や、運悪く苦境にある人に対してしばしば向けられる。運の影響なくいまの自分自身がかたちづくられている人など、誰もいないはずなのですが。

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この記事の中でご紹介した本
不道徳的倫理学講義 ─人生にとって運とは何か/筑摩書房
不道徳的倫理学講義 ─人生にとって運とは何か
著 者:古田 徹也
出版社:筑摩書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「不道徳的倫理学講義 ─人生にとって運とは何か」出版社のホームページはこちら
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