古田徹也氏ロングインタビュー 運に向き合い、倫理を問いなおす 『不道徳的倫理学講義』(ちくま新書)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年9月6日 / 新聞掲載日:2019年9月6日(第3305号)

古田徹也氏ロングインタビュー
運に向き合い、倫理を問いなおす
『不道徳的倫理学講義』(ちくま新書)刊行を機に

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第4回
ストア派、ウィリアムズ /運を多角的に考えるために

――本書には、古代ギリシアの文学作品やアリストテレス、あるいはストア派における「運」について、詳細な記述があります。
古田 
 そうですね。とくにストア派には相当長い紙幅を割いています。本書の隠れた主役は間違いなくストア派です。デカルトにも、アダム・スミスにも、ストア派の倫理思想が非常に大きな影響を与えている点を、本書では強調しました。

自分は基本的に現代の領域を専門としているので、それ以外の時代に手を出すのは、哲学でも専門分化が進んでいる現在では難しいというか、怖い。とくに古代はおっかない(笑)。ただ、今回はそれぞれの専門家の方々にはお目こぼしをもらうとして(笑)、とくに古代の叙述をかなり手厚くしたかった。それで見えてくるものがいろいろあると思ったので、自分なりに蛮勇をふるったつもりです。

本書は、いくつかの大学で行った講義のためのノートが基になっているわけですが、興味深かったことのひとつは、ストア派に共感する学生が意外といたことです。しかも、講義では運の存在をフィーチャーしているわけですから、おのずとストア派を悪役にしがちというか、どちらかというと意地悪く扱うことになるわけです。そのなかでもストア派を支持する学生がちゃんといる(笑)。無常で不確かな世界のなかに、ある確固とした強力な杭を一本打ち立てるような姿勢に惹かれる学生が、少なからずいる。それが、運というテーマを軸にして倫理学史をたどりなおす、ひとつの効果なんだと実感しました。つまり、運をめぐる問題の流れのなかにストア派を位置づけることによって、彼らの思想の迫力みたいなものが、お説教でもきれいごとでもない、現実と切り結ぶ迫力をもったものとして見えてくる面があるのではないか。

そういう経験もあって、私は本書では、一定の結論や立場に誘導しようという狙いはそこまで強くはありませんでした。むしろ、読者の方々が考えるための材料をまず提供したかった。現実のなかに運の要素が分かちがたいかたちで織り込まれているというのが私たちの生活、暮らしだけれど、それを認めてもなお、ストア派の立場やカントの立場を貫くという道はありうると思います。アリストテレスやスミスの立場に関して、首尾一貫していないと批判する人もいれば、そのバランス感覚を買う人もいるでしょう。テオグニス(前六世紀頃のギリシアの詩人)は倫理学の内部で扱われることはほとんどないですが、その弱々しさや率直さは、それはそれで興味深い。

本書の第二部、倫理学史の部分は冗長と感じる人も多いかもしれない。でも、さまざまな考え方をした人々をひと揃い出しておきたかった。それが、運というものを多角的に考えるための大事な材料になると思ったんですね。

――ストア派も本当に興味深いですが、「オイディプス王」の解釈にも惹かれました。また、現代の倫理学を扱うところでは、運による結果を引き受けることについてのバーナード・ウィリアムズ(イギリスの倫理学者)の議論が大変刺激的でした。
古田 
 「オイディプス王」をはじめとしたソポクレスの悲劇と、それから、現代のウィリアムズの議論は、私にとっては互いに深く結びついていて、やはり力を入れて書いていますね。たんに思考の材料を提供するだけではなく、私自身の考えが強く出ている箇所でもある。

オイディプスの物語は不思議です。運命に翻弄されたあげく、最後は自分の目を潰すわけですが、その暗い愚行が、なぜかある種の晴れやかさをまとってもいる。それはいったい何だろうかと思う。彼はそれまで、目は見えていたけれども、ある意味では何も見えていなかった。彼は自分の目を潰すことによって、いわば、はじめて目を開くわけです。そのとき彼ははじめて、自分が何をしてきたのかを受けとめ、自分の生として引き受ける。彼がしてしまったのは許されざる罪であるわけですから、その引き受け方は、目を潰すことそれ自体であったり、荒野をさすらうことであったりする。それは暗く陰惨なものではあるのですが、同時に、彼がまさに自分の生を取り戻したということでもある。そこに、不思議な晴れやかさが宿るのだと思います。

バーナード・ウィリアムズが自身の倫理学のなかで追求しているのも、意のままにならないものを自分のものとして引き受けるということの内実なんだろうと思います。自分たちは運に翻弄される弱々しい主体であるけれども、運による結果を自分から完全に切り離すことはできない。人生は運の産物とそうでないものの網の目であって、そうしたない交ぜの、分かちがたい全体を、私たちは自分をかたちづくるものとしてとらえていく。ウィリアムズのこの視点は特異であり、倫理学としては異端の立場ですが、私としてはこちらに与したい。そういう意味では、私自身はプラトンやストア派などの正統派の立場に対してはやはり批判的です。

人生はすべてギャンブルだ、とは言わないけれども、ギャンブルの側面は必ずある。しかも、ここまでは運の産物で、ここからは違う、というふうに明確に切り分けることはできない。私はウィリアムズとともに、そう思います。反対に、そのような切り分けは可能だし、切り分けるべきだ、という考え方もある。切り分けたうえで、運の産物については自分の人生の外部にあるものと見なそうとする立場ですね。こちらの方が遥かに正統的な倫理学です。自分の外部で何が起きても動揺しない。運や運命の荒波がどれほど押し寄せようともびくともしない、という境地を称揚する立場。

――ストア派が目指す境地でもあります。どんな事態にも平然として動揺しないこと。しかしこれは、相当難しいのではないでしょうか。
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この記事の中でご紹介した本
不道徳的倫理学講義 ─人生にとって運とは何か/筑摩書房
不道徳的倫理学講義 ─人生にとって運とは何か
著 者:古田 徹也
出版社:筑摩書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「不道徳的倫理学講義 ─人生にとって運とは何か」出版社のホームページはこちら
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