連載 オーシュの「独立と想像の映画祭」におけるシネクラブ   ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 122 |書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」
更新日:2019年9月16日 / 新聞掲載日:2019年9月13日(第3306号)

連載 オーシュの「独立と想像の映画祭」におけるシネクラブ   ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 122 

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フランソワーズ・アルヌール(左)と(2016年)
JD 
 男性と同じようにして、女性というのも精神的問題であることは理解できるはずです。なので、『ハウス・ジャック・ビルト』において一貫して扱われている問題は、男性の女性に対する視線であることがわかると思います。求められているのは女ではなく、女性なのです。女性を欲望し、支配し、圧迫することこそが重要とされる。そして、直接的ではなくとも、女性を犯すことが求められる。女性の上に立つ男性を見ること。そのような理解からすると、『ハウス・ジャック・ビルト』は、この上なく暴力的作品なのです。
観客 
 この作品における宗教と文明の関係についてお聞かせください。
JD 
 先日、『ハウス・ジャック・ビルト』についてのL・トリアーのインタビューを読みました。そのインタビューによると、彼は宗教との関連を直接に考えていたようです。自分自身の持つ宗教感について、インタビューの中で応えていました。実の父を知ることはなく、三六歳の時に、プロテスタントからカトリックへと改宗しています。彼の知ることのなかった実際の父親とは、ユダヤ人ありながらも決して宗教的な人ではありませんでした。そのことが関係しているのか、L・トリアーは、どこかで宗教という問題に取り憑かれています。そうした問題を抱えていると、世界が全くもって異なるものになると思います。宗教というものは、言うならば戦争です。戦争を起こすためにこそ宗教がある。要するに、支配することを欲するのです。

宗教の抱える問題とは、L・トリアーの作品において、重要な位置を占めています。『ハウス・ジャック・ビルト』における主人公ジャックは、ある見方からすると、宗教というものには関係なく、その上を漂っているように見えます。しかし、そうした態度は、物語最後で、信仰へと転じるためなのです。最後ジャックは、地獄の業火の中に閉じ込められます。宗教的観点からすると、それより酷いことはありません。そのような状況に陥った際に必要とされるのが、存在や思考の崇高化としての宗教なのです。同時にそうした態度は、社会にとっては危険なものでもあります。なぜならば、自分自身を崇高化するために、他の人間を気にもとめず、結果として他者に危害を加えることになるからです。その目的とは、社会的力と社会的作法を両立させた人間へと至るためのものなのです。

実のところ、この作品において、特別に強い瞬間というものはありません。そして作品において人間性もしくは人間についての問題を無視した逸話はありません。ありとあらゆる人間性について語られているだけなのです。だから当然、宗教についても触れられています。私たちは宗教というものから逃れられません。宗教というシステムにおいて最も強力なものは、ありとあらゆる理屈を抜き去りながらも、信仰深くなれることなのです。当然殺人も信仰へとなり得ます。ジャックは、殺人という分野において、徐々に聖職者へと近づいていく。女性たちと関わる全ての場面において、ジャックは司祭の役割を果たします。こっちへ来い、姿を現わせ、消え失せろという指示を与えるのです。そのような遊戯がありとあらゆるところで見つかります。司祭が進むべき道を示すようにして、ジャックはそれから先に起こることを示しながら、女たちを支配することで、彼の世界を作り出します。殺人と死による崇高化の道です。死による崇高化というものは美しいものです。ジャックという司祭が見せるのは、美しいと同時に悲しくもなるという教訓なのです。
観客 
 作品の中に現れる建築、音楽、絵画といった芸術作品からの引用と、決して完成することのない家について、お聞かせください。
JD 
 この作品のテーマの一つは、世界と芸術作品に対する、芸術家の態度なのです。つまり、芸術はどこにあるのかという問いです。私にとって真理だと感じられるのは、芸術は何かを言わなければならないということです。言うこととは、見せることであり、聞かせることでもあります。音でもあり、視線でもあり得るのです。芸術は何かを言わなければならない。しかし、それは何かを暗唱するようなことではありません。映画において、何かを言うということは、見せることに他なりません。それは、まなざしを開かせることであり、ただ画面にあるものを近くさせることではありません。         〈次号につづく〉
(聞き手・写真=久保宏樹)
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