『荒地』の時代 アメリカの同時代紙からみる 書評|荒木 正純(小鳥遊書房 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年9月14日 / 新聞掲載日:2019年9月13日(第3306号)

『荒地』の時代 アメリカの同時代紙からみる 書評
タイポグラフィカル・イマジネーションの世紀
横溢する同時代のコトバと『荒地』の競合的共犯関係

『荒地』の時代 アメリカの同時代紙からみる
著 者:荒木 正純
出版社:小鳥遊書房
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 効率こそが至上命令となりつつあった産業革命期、時代を代表する詩人であるとともに、疑いなく知的周縁者の一人でもあったウィリアム・ブレイクは、自ら開発した特異な彩色技法によって預言詩『イェルサレム』を造り上げた。高度な活版とプレス印刷機による出版がすでに一般化した十九世紀英国にあって、彼は百枚ものプレートを手書(描)きの詩行と図像で埋め尽くし、これを巨人アルビオンに託した人類再生の物語として掲げてみせたのである。

このような作品は、いま私たちが習慣的に「絵」や「詩」と呼ぶものとは違っている。近代の黎明にはすっかり分業されつつあった、こうした芸術/技術を再び一つに統合しようとしたブレイクの流儀は、ある意味では人類の技術的規範そのものに対する反逆であり、詩人自身の言い方に倣えば、ニュートンの〈分析〉が導入されてこのかた、「些細な特殊性」に向かってひたすら分岐し続けてきた人類の知や文化への、断固たる抵抗の試みでもあった。

もっと雑ぱくに、これを〈総合〉への回帰と呼んでも良い。アルファベット二十六文字がとうの昔に活字と呼ばれるバラバラの部品へと解体され、ガチャリと寄せ集められ、鋳固められたその習慣的組合せが、まさしく「がちゃり」と呼ばれるレディーメイドの鉛塊となって組版台に転がるようになって久しい時勢の中、なおブレイクはこの無機的文字の散らばりを自らの魔方陣に集め、手を用いたその希有なる技によって、新たな有機的宇宙へと錬成する道を選んだ。この奇矯な文化錬金術が、異形のうちにロマン主義と呼ばれるものの神髄を今も表していることは疑いを得ない。

だが、こうした流儀に対する重大な反駁となるべき作品がある。二十世紀を代表する詩篇『荒地』こそがそれであり、このアンチテーゼゆえにこそ、T・S・エリオットは今もなおモダニズムという大いなる歴史/物語の主役の一人と目されているのだ。

大冊『ホモ・テキステュアリス』から二十年余、本邦の英文学研究を牽引してきた著者がいま再び圧倒的な頁数を用いて詳らかにするのは、この『荒地』という新時代を画した作品が、まさしく先に述べた「活字と呼ばれるバラバラの部品」を根本原因とし、かつ本質としていたという事実にほかならない。ブレイクの異端的情熱が散り散りに砕けたこの人間世界を我流の文字とイメージによって再び「一つ」にしようと孤軍奮闘したのに対して、『荒地』の詩人が試みたのは、そのばらばらの世界を、いわばばらばらのままに示すことであった。実際『荒地』が謳ったのは、しばしば露骨なまでに先の原義におけるようなクリシェ、つまり既に鋳固められて現存する世の様々な言葉の断片である。この世紀の傑作が、ご丁寧にも詩人自身による学術的注釈(!)を予め付されていることは良く知られた事実だが、例えば結び近くの詩行──
ロンドン橋おちる おちる おちる
そして彼は浄火に姿を消した〔原文伊語〕
いつ私は燕になれるのか〔ラテン語〕──おお燕、燕よ
朽ちた塔に立つアキタニア公は〔仏語〕
──などはその際だった例であり、この四行は詰まるところ、それぞれが童謡の「ロンドン橋」、ダンテ『煉獄篇』、未詳の古代詩『ウェヌスの夜歌』、ネルヴァル「廃嫡者」からのまったき抜き書きである。そしてさらに語り手は、まるで作者自身の心を読み上げでもするかのようにこう続けるのだ──「こうした断片によって、私は朽ち果てる我が身を支えてきた」と。

こうした詩行は、したがって伝統的な文学的仄めかしと言うよりははるかに文字通りの断片、ばらばらのモジュールとなって予め散らばっている世界そのものの欠片であり、『荒地』とは、言うなればそれらを繋ぎあわせて「朽ち果てる我が身(my ruins)」を危うく支えようとする、新たな人間的試み──ブレイクのそれとは大いに違った──と捉えられるのである。

『荒地』のこのような引用過多の側面は、なるほど荒木も示唆するように、どこかダダ的コラージュを思わせないではない。だが結局、厖大な同時代のテクストと『荒地』を繰り返し照合・検証した末に著者が辿り着くのは、エリオットがハイブラウなダダイストであるなどという観察でないのは勿論、ダダであれ何であれ、同時代の然々の出来事や観念が『荒地』の本性を言い当てている、という発見でもない。本書はむしろ、そのような一意的定義が不可能であることの、この上ない証左である。だが他方でまた、本書が全体として言い当てている画然たる事実が一つある。ボードレールに関するユゴーの言い草ではないが、『荒地』は確かに二十世紀の「新しい戦慄」を創造した──だがその新しさは、いかなる新しいものによっても構成されてはいない。この最後の逆説こそは、荒木の批評的オーケストレーションが密かに、だが随所で奏でる旋律であり、評者もまた共鳴する理解の枠組なのだ。

二十世紀初頭、ブレイクの時代とは最早比較にならない速度で輪転機が刷り上げ、新しい情報メディアを通じて爆発的に拡散し始めたタイポグラフィカルな複製言語たち。荒木が読み解くのは、こうした横溢する同時代のコトバと『荒地』の競合的共犯関係とでも言うべきものだ。こうした機動可能な文字列を都度掠め取るように拾い上げ、次々新しい詩情へと「組み替え」て行くことこそは、エリオットがもたらした新奇な流儀であった。モダンの先駆者ボードレールは、パリのアーケードを飾る安手の広告イメージに芸術の「モデルニテ」を見出したものだが、荒木が探る豊富な歴史資料から読み解かれる『荒地』流貼り絵の裏面は、十九世紀末の慧眼が読み解いた同時代の断片と比べても、はるかに問題含みで謎めいた含意に充ち満ちている。今後エリオット研究にとって欠くべからざる一冊となるはずの本書が、活発でスケールの大きな議論を引き寄せることを期待してやまない。
この記事の中でご紹介した本
『荒地』の時代 アメリカの同時代紙からみる /小鳥遊書房
『荒地』の時代 アメリカの同時代紙からみる
著 者:荒木 正純
出版社:小鳥遊書房
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