モービー・ダック 書評|ドノヴァン・ホーン(こぶし書房)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年9月14日 / 新聞掲載日:2019年9月13日(第3306号)

モービー・ダック 書評
アヒルのオモチャに憑りつかれた男の、向こう見ずな全調査記録

モービー・ダック
著 者:ドノヴァン・ホーン
翻訳者:村上 光彦、横濱 一樹
出版社:こぶし書房
このエントリーをはてなブックマークに追加
一九九二年一月、香港から米国に向かう貨物船がアリョーシャン列島近くで暴風雨に遭い、コンテナ二つが崩落した。そこから七千二百組、約二万九千個の幼児用浴用玩具が大洋に流れ出した。プラスチック製の赤いビーバー、青い亀、緑の蛙、黄色いアヒルのオモチャだ。剽軽な嘴を突き出し、無垢な瞳を見開いたまま厳寒の海を漂流する小さな黄色いアヒルの群れは、鮮烈なイメージで多くの耳目を集め、新聞が報じ、童話が作られた。

二〇〇五年三月、ニューヨークの私立学校にいた若い教師が、一人の生徒が提出した作文を読んで、この漂流譚を知った。アヒルたちは、その後、どこをさまよっているのか。ふと気になった教師はアヒルの航跡を調べ始めた。はじめは安楽椅子で推理する探偵のつもりだった。ちょっと調べて満足する。だが、これでいいのか。いったん追い始めたアヒルの幻影はさらに先を漂い、やがて教師は、アヒルが漂着したというアラスカに向かい、漂流物を集めるビーチコーマーたちに出会う。さらにハワイで海洋調査船に同乗して漂うプラスチックごみの実態を知り、やがてはオモチャを製造した広東省の工場に足を伸ばし、帰りにはコンテナ船に乗って北太平洋のアヒル流出の現場を訪ねる。

いったん始めた旅に終わりはない。教師は、米東海岸にもアヒルが漂着したという目撃情報を頼りに、北に向かう。アヒルが大西洋にたどり着くには、北極海を抜ける北西航路を通るしかないからだ。こうして教師はグリーンランド行きの船に乗り込み、さらに極地探査の砕氷調査船で北極圏を目指す。
気軽に始めた追跡の旅は、いつしか地球規模に広がり、その間に、身重だった妻は男の子を出産し、教師は職を辞した。そう、これは、モビィ・ディックを追うエイハブ船長を描いた「白鯨」のように、アヒルのオモチャに憑りつかれた男の向こう見ずな全調査記録なのである。
この本をどの書棚に分類するか、書店員や図書館の司書は戸惑うだろう。海洋を汚染するプラスチックごみの現場に肉薄するルポであることは間違いない。だが、アヒル漂着の悉皆調査を目指す学術論文でもなければ、体系だった報告書でもない。代わりに著者は、行く先々で見聞きする下世話な話題に脱線し、かと思えば、愛読するメルヴィルやヘンリー・D・ソロー、コンラッド、レイチェル・カーソンらの著作を引いて「自然と文明」について思索を深める。その合間には、ニューヨークに残した妻子への郷愁と無謀な企てへの悔悟、「神経衰弱」で失踪した母の思い出にまで筆が及ぶ。
幼い頃に絵本や子供向け抄訳で「名作」を卒業したつもりの人は、不運と言っていい。「ガリヴァー旅行記」も「ロビンソン・クルーソー」も、そして「白鯨」も、子ども向けに削ぎ落とされた余剰にこそ、「名作」たる所以がある。少なくともこの本は、「余剰を排除しない」という著者の覚悟と、編集者の支えで船出した「現代文明ルポ」と言える。
二十世紀後半に広まったプラスチックは半永久的に分解されず、細かく砕かれると、有害な化学物質を吸着して生物の体内に入り込む。食物連鎖を通して濃縮され、人に危害を及ぼす可能性も指摘されている。「きれいで清潔」な使い捨て文明の代名詞は、大気汚染の有害物質のように、海流に乗って国境を越え、地球規模に広がっていく。著者が聞き取った研究者の言葉を引けば、私たちは地球温暖化と共に、かつて経験したことのない実験、それも「一回しか許されない実験」に立ち合っている。一回しかないのは、「地球にスペアなんてない」からだという。
本書は故・村上光彦氏が紹介を思い立ち、翻訳半ばで横濱一樹氏が仕事を受け継いだという。長い旅路の末に漂着した一冊である。
この記事の中でご紹介した本
モービー・ダック/こぶし書房
モービー・ダック
著 者:ドノヴァン・ホーン
翻訳者:村上 光彦、横濱 一樹
出版社:こぶし書房
以下のオンライン書店でご購入できます
「モービー・ダック」出版社のホームページはこちら
このエントリーをはてなブックマークに追加
外岡 秀俊 氏の関連記事
読書人紙面掲載 書評のその他の記事
読書人紙面掲載 書評をもっと見る >
文学 > 外国文学 > アメリカ文学関連記事
アメリカ文学の関連記事をもっと見る >