夜の哲学 バタイユから生の深淵へ 書評|酒井 健(青土社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年12月2日 / 新聞掲載日:2016年12月2日(第3167号)

夜の哲学 バタイユから生の深淵へ 書評
「生きつつある死」とは 様々な作家、思想家とのバタイユの思想の関係を論じる

夜の哲学 バタイユから生の深淵へ
出版社:青土社
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バタイユは一九三〇年代の一時期、友人であり、レントゲン技師であったジョルジュ・アンブロジーノに手解きを受けながら、物理学の諸理論に関心を示していた。その時期に書かれた「迷宮」には、物理学者ポール・ランジュヴァンの『原子と粒子の概念』への参照を確認することができる。ランジュヴァンはその著作で量子力学の基礎理論を紹介し、ある条件下で一つの電子が同時に二つの異なる地点を通過するという実験結果を挙げ、電子がときとして個体としてではなく、波動として振舞うことを説明している。バタイユの存在論に見られる「流れ」、「交流」、「流動的」な運動などの表現は、おそらくこうした科学的な知を支えとした世界観と無関係ではない。人間の意識との関わりを通してのみ実在を思考する「相関主義」の枠組みを超えて、バタイユの思考の一部は展開している。バタイユが語る「死」が、意識を持つ個体としての人間の不在を喚起しながら、生物学的な「絶命」を意味するものではないのは周知の通りだが、個を超えて世界に溢れ出す、プロセスとしての「死にゆくこと」、あるいは「内在性としての世界」とは、このような科学的知への参照を考慮することで理解され得るだろう。

酒井健氏の『夜の哲学』は、このバタイユにおける「生きつつある死」に焦点を絞り、ニーチェ、ブランショ、サド、キニャール、ラカン、三島、ナンシーなどさまざまな作家、思想家とのバタイユの思想の関係を論じた書物である。同時に、三部一三章からなる同書は、十年に亘る酒井氏自身の思想、バタイユ読解を通じ人間の内部に巣食う「闇」を凝視する同氏の独自の思考の集大成とも呼ぶべき大著である。

バタイユを読むことの醍醐味とは、上記のような科学的知に裏打ちされた世界観と、個人的な実存として生きられ記述される孤独、苦悩、歓喜の経験とのあいだの絶えざる往復、両者のせめぎ合いに触れることにあるのではないだろうか。それはおそらく、本書において酒井氏が生の倫理に対立する「死の倫理」としてバタイユ思想から抽出するものだろう。そしてこのバタイユにとっての「死の倫理」を生きることの不可能性は、同氏の実体験を通じて捉え直されている。

二〇一一年三月の東日本大震災の直後に被災地の三陸を訪れた酒井氏が、津波によって廃墟と化した旧気仙沼市街に立ち込める腐臭を嗅ぎながら、被災者たちの苦しみを支えきれない生の倫理の彼方で問い直そうとするのはまさにこの「死の倫理」の価値でもある。
「生きつつある死。広大で完結しない死。私が被災地の臭いに感じたこの死の在り方をバタイユはそのブランショ論で深く掘り下げている。「私たちが死んでいくこの世界」。一九五七年、バタイユが六〇歳のときに、刊行されたばかりのブランショの小説『最後の人』に寄せた書評である。ここでいう「私たち」とは、誰それという名前のある個人の集まりのことではない。人間なら誰でもよい広がり、いや人間に限らず、生ある存在すべてに及ぶ広い何かである。「死んでいく」というその死は、だから彼に言わせれば「普遍的な死」となる。他方でこの「死」は死んでしまったという完結した事態を指さない。死につつある、いまだ生きながら死につつあるという曖昧で重層的で未完了の移行を意味する。」(25頁)

ここに、私たちの個別の存在の遥か深奥を大河のように流れ、死、消滅へと向かう生命の存在を感じ取るべきだろうか。戦前から戦後への聖性をめぐるバタイユ思想の変化と連続性を論じた本書第二部、第四章「聖なるものの行方」では、一九三九年を境に有形の共同体創設の試みから、エクリチュールを通じた無形の共同体の探求へと向かうバタイユの歩みが跡づけられている。そうした変化にも拘らず、バタイユを一貫して超越性批判へと駆り立てていたとされるのが、「濁流のように混在しつつ流動し、それぞれきままに湧出してくる」「生に内在する諸力」であるとされるとすれば、この諸力こそが先の「広大で完結することのない」「生きつつある死」を可能にしていると理解すべきだろう。

本書の題名『夜の哲学』に見られる着想を積極的に伝えているのは、おそらく、パスカル・キニャールの『性の夜』を論じた第三部第三章「夜の歌麿」であろう。そこでは喜多川歌麿の春画に「夜の世界」の顕現を指摘するキニャールの考察が、ブランショの『文学空間』で展開される人間的な「第一の夜」から、非人間的で「死の経験」へと通じる「第二の夜」への移行についての思考を支えに読み解かれている。筆者は、歌麿が描く性愛に惑溺する男女の曖昧な眼差しに、「第一の夜」と、生者には見えない「第二の夜」とのあいだを揺曳する捉えがたい運動を看取っている。

第三部の最終章「神々の到来と創造的ニヒリズム」は、ジャン=リュック・ナンシーのバタイユ論を取り上げた書き下ろしの論考であり、筆者の最もアクチュアルな問題意識を垣間見せている。これは、あまり注目されることのなかった、ナンシーの最初期のテクスト「ニーチェ、だが彼を見る目はどこにあるのか」を起点として、二〇一四年の『エスプリ』誌のニヒリズム特集に寄せた「意味がもはや世界を形成しなくなるとき」へと続くナンシーのニヒリズム解釈の展開、その思想へのニーチェ哲学の影響を考察したナンシー研究としても意義深い論考である。ニーチェ哲学に主体の形而上学を見るハイデガーの指摘を相対化しつつ、ニーチェは形而上学を乗り越えたのではなく、「形而上学をそれ自体から解放した」とするナンシーの考察は、デリダ、ナンシーの脱構築をめぐる研究に新たな方向性を示唆しているといえるだろう。

筆者が指摘するように、一九八三年の「無為の共同体」におけるナンシーの共同体論が、ブランショの『明かし得ぬ共同体』の冒頭に掲げられていたバタイユの「共同体の不在」をめぐる言葉によってその後さらなる深化を遂げたとするなら、ナンシーの最新の共同体論でもある『否認された共同体』では、「関係なき関係」が紡ぎ出す共同体へのブランショのこだわりが神秘主義への接近という危険を孕むのではないかと問われている点も見過ごされるべきではないだろう。おそらくナンシーによる「留保つきの」バタイユの共同体論の評価もこの点と無関係ではない。バタイユが社会科学的論考において一種の科学的仮説として提示する「内在性」、「連続性」を「生きられた経験」の内実として提示し、生者たちの社会的共同体の存在論的基盤とみなすことの困難がここにはあるのではないだろうか。
この記事の中でご紹介した本
夜の哲学 バタイユから生の深淵へ/青土社
夜の哲学 バタイユから生の深淵へ
著 者:酒井 健
出版社:青土社
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