不思議な手触り、小説の不親切さ      千葉雅也「デッドライン」、間宮緑「語り手たち」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年9月18日 / 新聞掲載日:2019年9月6日(第3305号)

不思議な手触り、小説の不親切さ     
千葉雅也「デッドライン」、間宮緑「語り手たち」

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不思議な手触りの小説だ。千葉雅也「デッドライン」(『新潮』)のことである。大学院でドゥルーズについての論文を執筆しているセクシュアル・マイノリティの「僕」が主人公。「僕」には、昼の顔と夜の顔がある。昼は研究者として徳永先生という非常に穏和な、かつウィットに飛んだ魅力的な人物のもとで研究を行い、夜はハッテン場へ出入りしては、セックスの快楽に浸る日々を送っている。そんな「僕」は、「普通の男子になること」ができず、「男同士の関係性の外に置かれてきた」という感覚を覚えている。疎外感が語り手を空中浮遊させている。ゆえにどうしても社会と交わることができない。社会が歩む速度と「僕」の生きる速度が違いすぎるのだ。「僕」には停滞感がある。それは、与えられた最後の余暇といっても良いのかもしれない。デッドラインとは余暇が終わる瞬間なのだろう。デッドラインに近づくにつれ、酸素は希薄になる。息が苦しい。もがく。こうして、物語は途方もない虚脱感のなかで回遊している。作者は本当なら何らかの救いの手をさしのべるべきなのかもしれないが、安易なことはしない。物語を恣意的に閉じるということをしないのだ。稀有な構造をもった小説である。

高尾長良「音に聞く」(『文學界』)は「言葉か音か」を巡る父と娘の対話のなかで発生する物語。翻訳業に従事する長女の有智子は、その才能を父親に認めてもらう必要があると考え、天才的な作曲家である次女の真名を音楽家の父に会わせるためにウィーンを訪れる。父親は真名に歪んだ愛情を持つ。真名は父親を嫌悪する。有智子は真名を羨望する。こうした必ずしも健全とは言い切れない関係性のもとで父と娘は対話を繰り広げていく。有智子は言葉を操る者だ。一方で、父親は音を操る側の人間だ。父親は娘に対して、言葉の野暮ったさを説く。そして音が言葉に対していかに優位に立つかを教える。他者の言葉の媒介者である有智子は、小説の下敷きになっているホフマンスタールが『チャンドス卿の手紙』で綴ったように、言語の無能力さを前に失意に陥る。父と長女はこうして弁証法的に対話する。そして、最後、この対話を真名という天才が止揚する。深い井戸の奥底で小説は確かな答えを見つけている。この作者の物語が信頼できるゆえんだろう。

小説の不親切さということを、木村紅美「夜の底の兎」(『群像』)を読んで考えさせられた。建築士の「わたし」がクライアントとの打ち合わせのために訪れた盛岡の近くには、かつて小学生の頃、夏休みを過ごした祖父母の家があった田舎がある。「わたし」は不意にその頃、よく遊んだ精神遅滞を抱えるゆめちゃんという人物のことを思い出す。蔵に匿われていたゆめちゃんは不思議な人だった。蔵の外を知らない彼女に「わたし」はなんとか世界の広さを知ってもらおうと思う。物語はファンタジーの窪みに落ちる。そこから「わたし」の生きた長い年月が自由に行き来する。20年以上前のことを話していたかと思うと、昨日起きた出来事について語り始める。最初、これはあまりにも不親切ではないかと思った。しかし、読んでいくうちにこの不親切さが読者の胆力を鍛えるのだと気付いた。私たちは親切な小説に慣れすぎているのではないか。

多彩な小説が並んだ今月だけど、私にとって随一の読み物は間宮緑「語り手たち」(『群像』)だった。この作品は物語のなかに物語があり、さらにそのなかに物語があるという構造をとっている。老人が物語を語り始める。そのなかには語るべき物語を失ってしまった「語り手」が出てくる。彼から物語を聞き出そうとする少年が二人。「語り手」は物語を探すために語り始める。そこへ最上位の物語の登場人物で二番目の物語の聞き手たちが批評をし始める。ここから浮かび上がるのは物語に振り回されている読者の姿だ。それは愚かで滑稽だ。けれど、それでいい。物語は読者に寄り添うべきではないのだから。(ながせ・かい=ライター・書評家)
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