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更新日:2016年12月2日 / 新聞掲載日:2016年12月2日(第3167号)

独特なひねりのある魅力 科学者の世界観から作品を描いた竹林美佳<

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竹林美佳の「愛の単離」(『すばる』十二月号)が面白かった。単離とは耳慣れない言葉だが、「単独の要素として分離すること」を指す。「愛の単離」とはしたがって、「愛はどんな物質ないし神経細胞がどのように働くことによって起きるのか」を特定するという科学的な発見を指す言葉になり、それを目指す生物学者を主人公とする小説のタイトルともなるわけだ。

「わたし」は生物学の博士課程の院生で、長期的な目標として「愛の単離」を志している。だが取りあえずは先輩から引き継いだ研究テーマで論文を仕上げて博士号を取得し、研究者として生き残らなければならない。心身ともに余裕のない状況で実験を繰り返し、データを収集する日々を送っている。高校時代から付き合っている恋人のマイケルこと納屋傑も同じ大学の生物学のポストドクターだが、「わたし」には性交痛の問題があり、セックスを避けたい気持ちが強い。ところが、「わたし」が実験用のラットの中に性交痛があるとおぼしい交尾を嫌う雌を発見したことから、「わたし」の抱える「愛」の問題と研究とが直線的に結びつくことになる。

日本文学は作者の主観の勝る、極めて情緒的な世界である。欧米の文学、あるいは中国の文学などと比べてみても、それは間違いないことだと思われる。読むとたいていどこかベタベタしている。私も日本人だからその湿り気がそんなに嫌ではないが――必要なら海外文学を読めばいいことではあるし――それでも構築性や客観性の乏しさを物足りなく感じることもある。

この作品も「わたし」の行動や心理、恋愛の行方などが中心に描かれているものの、その「愛」を研究の対象として顕微鏡の向こう側から見ている科学者の目が存在している。要するに、この作品の基本的な世界観は科学者のそれであり、感情も感覚も心理も最終的には細胞の働きに還元されると考えている人たちばかりが登場する。「わたし」が自身の性交痛について納屋傑に「こうなってしまう原因の一つに脳のA9あるいはA10神経の一部分に受けている若干の障害がある」と説明しているというのはそれをよく表している。

科学的世界観においては、ミクロの世界から人間の心理や宇宙の果てまでが同じ一枚のチェス盤であり、思考はそこを自在に行き来することができる。アメリカの理系のバックグラウンドを持つ作家たち、トマス・ピンチョンやリチャード・パワーズらの作品はそうしたチェス盤を描いて、比類のないダイナミズムを獲得している。

理系の研究者であるらしい竹林美佳のこの作品も、彼らの作品に似たダイナミックでクールな味わいがある。それに加え、女性の性や結婚・出産という極私的な問題が、科学現象という側面を持ち、ラットや顕微鏡やアメリカ西海岸で開かれる国際学会といった大小さまざまの道具立ての中で描かれることが、独特なひねりのある魅力となっている。スケールの大きさという意味ではまだまだだが、今後の作品に期待したい。

服部文祥の「息子と狩猟に」(『新潮』十二月号)は、息子を連れて鹿狩りに出かけた男性が、オレオレ詐欺グループのいざこざで殺した死体を捨てるために山に来た男と遭遇する話。詐欺グループの男は社会の中で狩りよろしく老人たちからカネを奪っているのだが、最終的には本物のハンターである男性が勝ちを収める。父親を尊敬と憧れの目で眺める少年の存在も快く、爽快な作品だ。

だが、たとえば同じ鹿狩りという題材を扱った上林亮平の「よっつの春」(『すばる』十二月号)と読み比べるだけでも、この作品が様々な事を捨象して成り立っていることは分かる。早い話が、女性が登場しない。「よっつの春」の方は、主人公は狩りに参加する女性であり、狩りのパートナーはもう実際に獲物を射つことはできない老人である。それだけで「息子と狩猟に」よりもはるかに複雑な味の作品になっている。それは小説としての完成度や読み応えとは必ずしも一致していないのだが、少なくともある種の社会的アクチュアリティを備えているとは言えるだろう。

鹿狩りのモチーフは赤坂真理の『東京プリズン』でも効果的に使われ、両性具有の鹿が女性性と男性性の相克を乗り越えるイメージとして、重要な役割を果たしていた。津島佑子が遺作を『狩りの時代』と名付け、障がい者やユダヤ人の抹殺を正当化したナチスの思想を告発したことも記憶に新しい。それらを引き合いに「息子と狩猟に」を批判するのは斧でクルミを割るようなことになりかねないが、この作品が狩りというものが持ちうる「弱肉強食」といった含意をいささか安直に利用しているということは言えそうだ。

玄月の「楽園」(『新潮』十二月号)は犯罪に絡む大金を預けられた亮吉が生まれ育った町に戻り、昔なじみの女性にコインロッカーのカギを預けたことから起きる騒動。亮吉はかつて地元のサッカーの少年チームで活躍し、コーチの紹介で千葉県のサッカーの強豪高校に入ったものの、挫折して犯罪まがいのことをして暮らしてきたという設定だ。

この小説は、最近出版された『橋を架ける者たち』(木村元彦著、集英社新書)に対する応答なのではないか。同書は『すばる』に連載されていたノンフィクションだが、大阪など各地の在日朝鮮・韓国人の少年サッカーチームや、そこから出てプロになった選手たちを取材したものだ。スター選手だけでなく彼らを支える朝鮮高校の教員やサッカーコーチらにも光を当て、ヘイトスピーチに苦悩するコミュニティの姿をもとらえた、非常に読み応えのある作品だが、行き場のない欲望や倦怠が渦巻く「楽園」の作品世界は、この『橋を架ける者たち』の裏バージョンと考えると腑に落ちるものがある。ここではサッカーのコーチも自分の成功のために子供たちを利用する俗物に過ぎない。玄月の底意地の悪さがいっそ小気味いい作品だ。

舞城王太郎の「トロフィーワイフ」(『群像』十二月号)は、離婚の危機を迎えている姉の暴走を妹が止めようとする話。鈍感な夫の言葉に傷ついた姉は、何ら関係のない友人の家に転がり込み、その家の人たちを心理的に支配下に置いてしまう。

一方の妹も相当過剰な人物であり、二人の対決は悪魔とエクソシストのそれを思わせる。傍から見れば姉妹のどちらに対しても怖さが先に立ち、妹が正しいというのは、単に作品内で正しいとされているからに過ぎないようにすら感じられる。姉妹なので表裏であるというのはもっともな話だが、最近の舞城の掲げる「正しさ」は、その容赦のなさという点で、キリスト教のような一神教のそれと接近してきているのではないか。
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