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更新日:2019年9月21日 / 新聞掲載日:2019年9月20日(第3307号)

愛が嫌い 書評
身体と言語の乖離を出発点に
身体的体験をどのように言語化できるか

愛が嫌い
著 者:町屋 良平
出版社:文藝春秋
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愛が嫌い(町屋 良平)文藝春秋
愛が嫌い
町屋 良平
文藝春秋
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 これはあくまで個人的な感覚だが、僕はひどく言葉を紡ぐことに息苦しさを感じている。もちろん、僕自身の気質に起因するところも大いにある。だが、どこかそうでもないような、普遍化できる問題でもある気もする。だから、『愛が嫌い』を読んだ時、純粋に驚いた。ここには僕が感じてることに似た鬱屈さがあったからだ。

『愛が嫌い』に収録されている三作品「しずけさ」、「愛が嫌い」、「生きる体」はそれぞれ主人公が異なっているが、人物像としてはそれぞれ似ている。この小説が「パラレル私小説3部作」と帯文で書かれているのもそのような理由なのであろう。それぞれの人物の特徴は、一般的な職からあぶれ、どこか鬱屈としており、自我がない(薄い)こと。そして自分の意見が言えないことだ。

例えば表題作「愛が嫌い」では、主人公の「ぼく」が女友達の二歳の息子である「ひろ」を保育園から送り迎えすることを定期的に頼まれる。前職を二十七歳で退職した彼は、その後はファミレスでバイトをしていたため、時間に余裕があり引き受けたのだ。昔いた彼女とも別れてしまったことに対して、彼は「愛ってのが好きじゃない」と述べ、また「自分のことがすきじゃないのかもね……」とひとりごちる……。非常にナイーブな人物だ。

そんな「ぼく」はすべての会話に後悔があると述べている。言葉を発することに対しての逡巡があるのだ。自分の言葉に対するためらい。これはもちろん自我の弱さに起因することではあるのだろう。だが、本作で書かれているのは、うじうじとした内面の吐露ではなく、「どうやって言葉を取り戻すか」ということなのだ。

彼は「ひろ」を送り迎えする際に――ある意味では相手が二歳児であることをいいことに――なんでもない言葉をベラベラと話す。そこで彼は心の底から「しあわせだ」と感じる。それは子どもがいることの喜びから来たのではない。自我がまだかんじられない「ひろ」と自我の薄い「ぼく」によって視点、感情、そして言葉を得たからだ。本作のはじめに「ひろ」が二歳にしては「まだほとんどことばを発さない」とあるのも、主人公と対比的に描いているのだろう。

本作以外の町屋作品に出てくる主人公はダンスやボクシングといった身体的なものを軸としている人物が多い(『しき』、『青が破れる』、『1R1分34秒』など)。だからこそ描かれた「身体性」を評価されていたが、彼の本質はそこではない。彼の作品群は身体的体験をどのようにすれば言語化できるかという思考の中で描かれている(この主人公たちも内向的で自分の言葉をあまり持たない)。つまり身体と言語の乖離が出発点としてあり、やはり通奏低音としてあるのは言葉の逡巡なのである。

最近は日々を送っていると、目に入って来る言葉は殺伐としたものが多い気がする。特に僕はtwitterをよく使うが、そこでは行き交う感情的な言葉や対立をよく目にする。それを見ると、どこか言葉を抑えつけてしまう自分がいる。そうなると自我の弱さを思ってしまう。

町屋作品の自我の弱さと言葉の逡巡はコインの裏表である。言葉が紡げないところから始まる言葉。しかしそんな言葉は、逆説的だけれども、どこか力強い輝きを放って止まず、自我を押さえつけられている僕を勇気付けるのだ。
この記事の中でご紹介した本
愛が嫌い/文藝春秋
愛が嫌い
著 者:町屋 良平
出版社:文藝春秋
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