秋山駿 寄稿 “幻影の時代”の文学と政治――江藤・大江論争の底にひそむもの 『週刊読書人』1968(昭和43)年3月11日号 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

  1. 読書人トップ
  2. 特集
  3. 読書人アーカイブス
  4. 文学
  5. 秋山駿 寄稿 “幻影の時代”の文学と政治――江藤・大江論争の底にひそむもの 『週刊読書人』1968(昭和43)年3月11日号 1面掲載
読書人アーカイブス
更新日:2019年9月22日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第716号)

秋山駿 寄稿
“幻影の時代”の文学と政治――江藤・大江論争の底にひそむもの
『週刊読書人』1968(昭和43)年3月11日号 1面掲載

このエントリーをはてなブックマークに追加
1968(昭和43)年
3月11日号1面より
『群像』新年号で、大江健三郎氏と江藤淳氏が対談した「現代をどう生きるか」は、現在、両氏の文学観、政治・社会観に決定的な断絶のあることを示したものとして、注目をあびた。安保闘争時の「若い日本の会」の活動をはじめ、両氏は文壇に登場以来、文学的にも行動的にも、新しい戦後派文学者を代表してきたのだが、両氏の断絶は何を意味するのか――「三田文学」の一、二月号で江藤氏と大江氏にインタビューした文芸評論家の秋山駿氏に執筆してもらった。(編集部)
第1回
最も刺戟的な文学の観物

「実は、また、少々、ヴォルテールとルソーのお話がしてみたい。ひと頃なら、熱烈な崇拝者が二つの陣営に分かれていて、こう前触れするのを聞いただけで、もう唸りだしたものだ」

これはサント・ブーヴの言葉だが、異なった二つの精神の対比とか敵対を見るほど、人間のなかの観物はない。そこで、現にわれわれの眼前にあるもっとも刺戟的な文学の観物は、最近の江藤淳と大江健三郎の論争だということになる。群像新年号の対談「現代をどう生きるか」は、まさに、われわれの頭蓋を割る一条のひび割れのように、われわれの文学への政治的関心への、想像世界と現実認識への、すなわち、作家のみならず知的な現代人として生きることへの、異なった考えの内容をあらわにしてみせた。

私は、その対談の後で、そこで何が話されたかも知らぬ愚かな立場で、両氏に三田文学でインタビューを行ない、漠然と、単に文学上の主観の相違ということでは済まされぬ対立、或る定かならぬ意外なものに触れるような思いがして、当惑し、触れたところでさらに当惑した。そこには、現代という過渡期の中で混乱し、分裂し、さらに電圧を異常に高めているところの現実の投射がある。政治というひび割れの投影がある。政治という言葉が二分する、われわれの現実認識の相違がある。

これらのことを、反安保行動に参加した友人達との友情を傷つける、という大江氏の「侃々諤々」とい匿名文への抗議文(群像二月号)や、羽田事件の学生にふれた江藤氏の発言を攻撃した、小田切秀雄「批評の市民化を排す」(群像三月号)などが証明しているように思い、私は怠惰と無関心の眠りから眼の覚めるような思いがした。

そう考えてみると、なるほど、大江氏は、石原慎太郎の参院選立候補に異議申告の文章を書き(「鈍い人間の想像力」新潮42年十二月号)、石原氏はすぐこれに反論する文章を書き(「作家の現実感覚」文芸二月号)、また大江氏は、週刊朝日誌上で、沖縄の現状を指摘する鋭い報告や、佐藤首相への直言を行なっている。それからすでに前記の匿名文すら、その材料を安保に仰いでいる。
2 3 4 5
このエントリーをはてなブックマークに追加
秋山 駿 氏の関連記事
読書人アーカイブスのその他の記事
読書人アーカイブスをもっと見る >
文学関連記事
文学の関連記事をもっと見る >