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中平卓馬をめぐる 50年目の日記
更新日:2019年9月30日 / 新聞掲載日:2019年9月27日(第3308号)

中平卓馬をめぐる 50年目の日記(25)

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いまや「写真」という言葉、概念がどれほど社会一般に共有されているかが分かり難いが、かつて確実に共有されていたあの「写真」誕生の経緯なら、ベンヤミンがこう簡潔に書いている。 
「発明の時節がとうに到来していて、幾人かの人々によってそれが感知されていた」、そして「おそくともレオナルド以来よく知られていた暗箱カメラの映像を定着するという同じ目標を追って、何人かのひとびとが互いに独立した探求を始めていた。およそ五年にわたる研究ののち、ニエプスとダゲールがほとんど同時にこの目標に到達した」(ベンヤミン著作集2、晶文社)。

それが1830年代末。この発明をフランス政府が買い上げて広く社会に公開した。だから日本にも南蛮船経由で伝わって来て、技術的準備が整うや写真館の開業が始まるという写真の社会化が、1860年代に幕開いた。

従って1960年代は写真伝来100年にあたる時期になり、日本写真家協会(JPS)はその機会に、写真の急速な発展を顧みる記念事業を企画した。

中平さんが突然そのJPSに入ると言いはじめたのには驚いた。JPSは写真家の職能団体で、「写真家証明書」を発行する唯一の社会装置でもあったので入会希望者は多かったが、複数の会員からの推せんと「実績」の審査があって、その門は狭かったと言われる。

それにしても中平さんが入会を望むとは考えられない。だから「どうして?」と私は訊いた。すると「東松照明からの話で断れないんだ」と答えた。

JPSが進めていた「写真100年 日本人による写真表現の歴史展」(1968年から69年にかけて開催)計画の担当が東松照明で、彼が編集技術をもつ中平を使おうと口説いたのだ。中平さんもそれだけのための入会ならと引き受けた……。「でしょう?」と言うと「その通りだ」とうなずいた。

日本の写真の歴史を遡及する展覧会の編纂をあえて真性の協会員だけによって行うという基本計画には協会の強い意気込みがあった。だが、その担当になった東松には編纂実務の能力に秀でた会員はとても少ないと思えたようだ。つまり計画を立案し、資料を収集分類、編集し、さらに社会的、文化的視点からのテキストの書き手を決めるなど、そういうことをこなせる人材は極めて乏しい、と。そこで東松は旧知の多木浩二(岩波写真文庫のときにも一緒に仕事をしていた)と、新しく編集者として出会った中平卓馬に目をつけたのだろう。

彼の目論見は当たった。多木、中平の二人を協会員による編纂委員とすることによって、計画が充実し進行もスムーズにはかどったからだ。

のちに東松照明は100年展やその本をめぐって、「あれは多木がつくった。中平はあんまり仕事をしなかったようだけどね」と言っていたことがある。「しかし中平がいたからこそ多木の力が引き出されたんだけどね」とも。

それは事実だったろう。中平さんは編集者上がりとは言ってもその実務は得意ではなかった。計画の立案の方に関心が先走る。そういうタイプの人だ。だから東松は触媒役としての役割を中平さんに期待した。

これをきっかけに、中平さんと多木さんは同士のように急接近し、親しい間柄になっていった。(やなぎもと・なおみ=写真家・東京造形大学名誉教授)

   (次号へつづく)
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