オーシュの「独立と想像の映画祭」におけるシネクラブ   ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 124|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」
更新日:2019年10月1日 / 新聞掲載日:2019年9月27日(第3308号)

オーシュの「独立と想像の映画祭」におけるシネクラブ   ジャン・ドゥーシェ氏に聞く 124

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シネクラブで話すドゥーシェ(左、2010年頃)

観客 
 もし芸術の意味が伝達することならば、ホロコーストのような事件は何を伝達するのかについてお聞かせいただけますか。
JD 
 芸術とは、コミュニケーションを行うことであり、伝達することであります。アメリカを例にとりましょう。開拓以前の文明において、人間を生贄に捧げる行いなどがありました。その種の、今日の西洋社会から見て、犠牲による崇高化のような考えは、人類の歴史の中で常に存在し続けてきました。もし一七世紀もしくは一八世紀の――または二〇世紀においてでさえ――西洋を考えるのならば、公開処刑が受け入れられていたのです。火あぶりにされるジャンヌ・ダルクだけではなく、取るに足らない人物の処刑でさえ、大衆を喜ばせていました。ギロチンの刃によって落ちる頭が一大娯楽であったのです。

忘れてはいけないのは、今日の人々が「野蛮」と呼ぶような行いは、文明社会の文化において非常に大きな瞬間だったということです。人間というものに対する問題が、想像を絶する時代であったと思います。ラース・フォン・トリアーにおいて、見事であったのは、そのような問題を、動物を通じて見せてしまったことです。『ハウス・ジャック・ビルト』において、虎と羊が見せられる瞬間があります。二分ほど、もしくはたった一分ほどだったかもしれません。人間性というものを考えるために、虎と羊の関係性を、三時間ほどで語ることができるかもしれません。そのような話は、三千年もしくは三万年にわたる、終わりなき歴史を持っています。確かに、拷問や処刑のような行いには、野蛮である事柄を出発点とし崇高化へと至る、信仰的な効果を見ることができるのです。拷問とは自白させるための手段でありながら、同時に宿罪でもあるのです。罪人は、罪から自由になるために拷問されるのです。

そうした観点からすると、芸術は、何かを崇高化もしくは俗悪化する手段であっても、コミニュケーションとなることはあり得ません。コミュニケーショとは、何かを提供し、それに返答があることです。芸術は、影響を生み出します。しかし、その影響に対する返事が芸術を変えることはありません。コミュニケーションとは、政治における本当の問題です。政治に従事する労働者たちが探し求める秩序です。美しき社会という考え方を実現させようとするための、一つの方法なのです。そして、その美しさこそが、多くの人々の念頭にあることなのです。いかにして、規律による美しさを生み出すか。そのような観点からして二〇世紀における――今日でも確かな数の国で行われ続けている――軍隊の一糸乱れない行進は、美しいものなのです。ヒトラーによるナチズム、コミュニズム、今日におけるフランスの政治は、私にとっては美しいものです。

真の芸術とは、秩序ではなく、無秩序です。配置されることになった無秩序なのです。一定の秩序を作り出すために、いかにして無秩序を組織するかが問題なのです。一方で、政治などにおける秩序とは、軍隊の行進の秩序のようにして、芸術と正反対にあるのです。政治的体制も、七月一四日のパリ祭の行進のようにして、秩序を保ち続けるために存在しています。

少し哲学的な話になってしまいましたが、秩序と無秩序の問題は複雑な反響があるのです。政治であれ、芸術であれ、個人であれ、もしくは家族であってもです。私たちが、ラース・フォン・トリアーの作った家父長制の挿話で見たのは、無秩序に置かれた家族と殺しによる秩序であったのです。  〈次号につづく〉
(聞き手=久保宏樹/写真提供=シネマテークブルゴーニュ)
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