〈あたたかな〉磁場、フィクションの強度    古川真人「背高泡立草」、倉数茂「百の剣」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

文芸
更新日:2019年10月6日 / 新聞掲載日:2019年10月4日(第3309号)

〈あたたかな〉磁場、フィクションの強度  
古川真人「背高泡立草」、倉数茂「百の剣」

このエントリーをはてなブックマークに追加
地方空間が持つ〈あたたかな〉磁場。古川真人の主題だ。「背高泡立草」(『すばる』)にもそれは継続して存在している。九州地方のある島に、母と子、そしてその親類が、母の実家が持つ納屋の草刈りに出かける。もう誰も住んでいない家屋には、時間が流れた痕跡だけある。その痕跡を辿って、現代から戦後、戦中、江戸時代の過去まで物語がワープする。小説を読んでいて気になったのは、父の役割だ。小説は母系のゆるやかな繋がりを描く一方、父をどこか厄介な、面倒くさいものとして、布置する。ひょっとして、この小説家が地方を題材にして物語を紡ぐのは、中心、つまり家父長制的なモノへの抵抗なのではないか。父がいなくても笑いが絶えない。小説から滾る〈あたたかさ〉は父なる存在への批判と表裏なのかもしれない。

倉数茂「百の剣」(『群像』)は、真希というなんらかの事件を起こして世間を騒がせたとされる女性になぜか執着する語り手が、彼女の綴った手記を読みながら、その跡を追う物語だ。真希は怒りを抱える。男性に対する怒りを。だから、小説に出てくる視姦を正当化する男性集団と闘おうとする。作者は、語りを、真希――彼女はじしんの拘泥する英傑ユディトに自己を同一化させる――の声と混淆させ、現実を虚のなかに溶け込ませるという離れ業を見せるのだが、そのことで、フィクションの最深部にあるリアリティが、読者に私たちの生きる世界の嫌な感覚を強烈に伝えるのである。真希の怒りは絵空事ではない。時代が直面している問題を刻印した力作だ。

倉本さおりが以前、『文藝』二〇一九年夏号に寄せた「はばたけ! くらもと偏愛編集室」のなかで、太田靖久の小説のキーワードは「倫理観」と「頑なさ」であり、それらが「男」という書き手の属性と結びついたとき、新しいタイプの「ダメ男」小説が生まれると述べていた。誤解ないように述べるが、倉本はこうした視点から太田作品の魅力を炙り出しているのだ。太田靖久の新作「アフロディーテの足」(『群像』)も、やはり、この系譜。自称アーティストの馬場が自らの住む団地を研究対象とした学生のグループと交流を持つところから物語は始まる。馬場は一人の女子学生に恋心を抱き、彼女がコンプレックスを持つ足をその目で拝むために、奔走する。自らの欲望に溺れている馬場は、それがいかにだらしないものであろうと決して手放そうとしない。まさに「ダメ男」の典型であり、それ自体は決して小説の欠点ではない。しかし、問題は、物語が男の欲情に任せて作られていることだ。女子学生は、馬場の身勝手な願望通りに息をさせられている。これでは、作者の「ご都合主義」という誹りを免れ得ないだろう。作中、女性が作者に抗う。その感覚を描いてほしい。

オウム真理教と向き合った迫力のある小説を古川日出男が書いている。「曼陀羅華X 1994―2003」(『新潮』)に出てくる二人の語り手はともに小説家だ。前半の語り手は、一九九五年に教団に拉致をされ、リーダーの男によって予言の書を書かされる。語り手が教団の内部に取り込まれると、世界は歪められ、その所在が朧げになっていく。すると語りが変わり、古川日出男と同じような経歴を持つ(しかし、最初の作品は盗まれたという)小説家が声を持つ。声の主はオウム真理教の記憶が忘却されることを危惧する。この小説はひりひりした衝迫感のなかで書かれている。世界が弱ってきている風景を目の前にし、作者はフィクションの強度を取り戻そうとしているかのようだ。

『文學界』が阿部和重特集を組んでいる。そういえば、学生時代、『シンセミア』を読み、興奮した私は、読後の熱に浮かされたまま神町へ足を運んだ。神町はほとんど何もない、小さな街だった。ドストエフスキーも、フォークナーも、中上健次も小さな空間を舞台に物語を紡いだ。小さな空間から大きな小説を書くということ。それがなんなのかを『Orga(ni)sm』を読みながら考えたい。(ながせ・かい=ライター・書評家)
このエントリーをはてなブックマークに追加
長瀬 海 氏の関連記事
文芸のその他の記事
文芸をもっと見る >
学問・人文 > 評論・文学研究関連記事
評論・文学研究の関連記事をもっと見る >