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中平卓馬をめぐる 50年目の日記
更新日:2019年10月6日 / 新聞掲載日:2019年10月4日(第3309号)

中平卓馬をめぐる 50年目の日記(26)

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「100年展」に向けた作業は、銀座一丁目の映画館「並木座」の裏手にあるビルの一室で進められた。

中平さんは「朝から晩までいるからいつでも来てよ」と言っていた。だから実際に行くと、「現代の眼」編集部ではじめて見かけた時と同じようにいろんな人の机の周りをぶらぶらしている。多木さんは自分の事務所の仕事もあるので常駐してはいなかったが、いる時は作業の段取りに手をこまねいている連中に次々とアドバイスを飛ばしていた。多木さんがくるとまるで工場のベルトコンベアが動き出すような感じになった。

中平さんは時間を見計らって「そろそろ終えましょう」と合図を送るようにするのが役割のようだった。それに反応して「そうですね」と言う人が必ずいる。多木さんは滅多にそれにはのらなかったが、あるとき珍しく「私ももうすぐ終えますから」と声を出した。私は中平さんの目配せを受けてすぐ近くの居酒屋に先行、テーブル席を確保する。そこは6時頃になるとワッと混んでくる店だった。

最初に暖簾を払いあげて入ってきたのが中平さんと多木さんだった。他の人たちは後片付けがあるから少し遅れるそうだ。

多木さんと私はビールを頼んだ。中平さんはコップ酒を頼んだ。グラスが揃ったところで乾杯をした。多木さんにきちんと挨拶をしたのはその時が初めてだった。

二人からは「100年展」準備に苦労している話を聞かされた。二人とも協会が期した「100年展」の編集計画に同意できないいろんな問題を抱えていたのだと思う。

「写真」に「美術」と同列の社会的評価をもたらしたい協会の大勢と、写真の特性に注目して「写真と社会」を重視する二人の考えを中心にした編纂チームの一部との食い違い。

内藤正敏さんも同じ委員だった。彼は北海道で埋もれていた開拓使の時代のドキュメントや、街の写真館に残されていた記念写真や風景写真の乾板、写真師の表現者としての試作を大量に探し出してきた。だが彼もまた貴重な資料の発見者ではあるが多木や中平とともに厄介な一人と思われていたようだ。協会主流と編纂部門の間にいろんな確執が生まれているらしいことが感じられた。

この際だから、と私はひときわ筋道立って冷静に話す多木さんに自分の胸の内を話してみようという気持ちになった。中平さんにはその少し前から相談し始めていたことだったのだが、「写真批評誌」を発刊したいという構想についてである。

大学の方も大学当局と学生、および学生相互間に不信感が渦巻き始めていて、「日大闘争」前夜の空気が漂い始めた時期だった。その影響もあったかもしれない。話に聞く協会の呑気さに敏感になり、協会ばかりではなく写真の世界が拠点としていた「カメラ雑誌」の特異性にも、それはおかしいと声をあげたいと思うようになっていた。
「ベトナム戦争があっても、カメラ雑誌にはその一片も反映されることはないのですね。いくら趣味の雑誌、写真産業界の雑誌だとは言っても、その内容を占める作品と称するもののタイトルには社会性に富んだ言葉が並んでいます。写真の世界は奇妙だと思います。そんなところに穴を開けてやりたい。そのためには議論を興す場が必要だと思っています。『報道写真』が『報国写真』になった、戦時中からの後始末もしていませんし。どこにも気兼ねがない学生の出番かなと。それで写真批評の雑誌の発刊を考えているんですが」と、矢継ぎ早に多木さんに話した。(やなぎもと・なおみ=写真家・東京造形大学名誉教授)  

   (次号へつづく)
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