脂肪のかたまり 書評|モーパッサン(岩波書店)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

【書評キャンパス】大学生がススメる本
更新日:2019年10月5日 / 新聞掲載日:2019年10月4日(第3309号)

モーパッサン著『脂肪のかたまり』

脂肪のかたまり
著 者:モーパッサン
翻訳者:高山 鉄男
出版社:岩波書店
このエントリーをはてなブックマークに追加
 ブール・ド・シュイフをのせた馬車が、私の眼の奥で走りつづけている。本を閉じた後でもはっきりと浮かぶのは、彼女が流した涙のことだ。

ブール・ド・シュイフはフランス語で「脂肪のかたまり」を意味し、作中では一人の娼婦のあだ名として用いられる。それはそのまま小説の題となり、モーパッサンが三〇歳の頃に書きあげた代表作として、よく知られている。一八七〇年の普仏戦争を背景に、プロシャ軍に侵入された町、ルアンの描写から小説は始まる。

冒頭、敗れた兵と占領する兵が入れ替わるように現れることで、私たちの関心は戦争から町の暮らしへ、移ってゆく。戦争から町、町から市民という順で人間をクローズアップしたモーパッサンの意識の流れは、ある〈火曜日の夜明け前〉に読み手を導こうとしている。そして出発を待つ四頭立ての乗合馬車が、目のまえにありありと浮かびあがる。

本書は馬車で始まり馬車でおわっている。物語の始めとおわりを象徴する閉ざされた空間に、人間の醜さと純真さがあぶり出される様をみると、ただの乗り物として片づけられなくなる。なかでもルアンを発って空が白むまでの時間が、登場人物の心のゆれ動きを巧みに表している。初め乗客の身分や思想は、暗闇の中で明かされていない。人は見かけに左右される、という言葉通りに見えなければ限られた時間、誰でもない誰かになることができる。特に行きの暗い馬車内では、視覚に訴える情報がないため、社会的関係がその瞬間だけ無であるといっていい。けれど朝の光がさしこむことで、乗客は互いの価値を推し量りはじめ、ブール・ド・シュイフだけ受け入れてもらえなくなった。

娼婦だから、といえばそうである。しかし身分の違いを痛感しているのは彼女自身であり、だからこそ読み進めるうちに彼女がゆいいつ澄みきった存在であることに気づく。作者が、登場人物と一定の距離をとりながら、冷たいくらい客観的に描写していなければ、人間の心の底は浮かびあがってこなかっただろう。現実社会にもいえることだが、三人以上集まることで私たちの関係はより流動的なものとなる。思惑が錯綜しあって、一筋縄ではいかない。降り積む雪で進みの遅い馬車の中、親切とはほど遠い人たちに囲まれながら、ブール・ド・シュイフは自分の食べ物を分け与えようとする。が、彼女が分けたのは本当に食べ物なのだろうか。若鶏の煮こごり漬け、雲雀のパテ、ブドウ酒の瓶は四つもあって、空腹を刺激する。食べ物はおいしそうに描かれており、誘惑にかられてしまっておかしくない。牛の舌の燻製、それに野菜の酢漬けまであるのだ。食欲を満たすことと性欲は密に関係しあうため、ここで小説のゆく末が示されているように思う。彼女は娼婦としてでなく一人の人間として、憤りや口惜しさを内包した精神的犠牲を払うこととなる。乗客のため、自らの誇りを捨てる覚悟を決めた。

その乗客はみな「純粋」の一部を口にしたというのに、宿屋に足止めされたとたん自己中心的にふるまう。読み手である私たちは、知らないうちに彼らを悲しい眼で眺めるかもしれない。国や他人を愛するかわりに自分をこよなく愛しているからだ。

屈辱的な最後を経験したブール・ド・シュイフ。けれども流した涙は、彼女を覆う汚れまで洗いおとした。修道女たちの祈りと、コルニュデが執拗に口笛で吹く「ラ・マルセイエーズ」の歌が、訪れた闇夜のなかでいっそう際立つ。見えないときでも身分や思想が消し去られることのないよう、綿密に描かれている。彼女は謂れない軽蔑の眼差しにさらされ続けたが、真っ暗になることで一時的に救われたのかもしれない。本を閉じた後、私の胸に刻まれたのは、悲しみの中で澄みわたってゆく彼女の姿だった。犠牲心を尊いと言いたくはない。彼女が最後まで、彼女自身を生きていたから忘れられない存在になったのだと思う。

「ラ・マルセイエーズ」の第六節は、〈愛国の聖なる心〉を持つ彼女の生を、乗客や読み手である私たちに刻みつけながら響いている。
この記事の中でご紹介した本
脂肪のかたまり/岩波書店
脂肪のかたまり
著 者:モーパッサン
翻訳者:高山 鉄男
出版社:岩波書店
以下のオンライン書店でご購入できます
「脂肪のかたまり」出版社のホームページはこちら
このエントリーをはてなブックマークに追加
【書評キャンパス】大学生がススメる本のその他の記事
【書評キャンパス】大学生がススメる本をもっと見る >
文学 > 外国文学 > フランス文学関連記事
フランス文学の関連記事をもっと見る >