海に生きた百姓たち 海村の江戸時代 書評|渡辺 尚志(草思社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年10月5日 / 新聞掲載日:2019年10月4日(第3309号)

海に生きた百姓たち 海村の江戸時代 書評
江戸時代の海の男たちの知られざる300年史

海に生きた百姓たち 海村の江戸時代
著 者:渡辺 尚志
出版社:草思社
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 早朝、近くの浜で地引網を曳いている。相模灘の西・こゆるぎ浜にて。メンバーは、旧国鉄出身のオヤカタの下、退職生活者、兼業農家、会社員など十数名だ。筆者は偶然に神保町の書店で本書をみつけた。江戸時代の海の男たちの歴史が綴られている。〈海村〉って何だろう?舞台は奥駿河湾の村、西伊豆、半島の付け根辺りだ。浜の仲間と回し読みする。

「百姓=農民ではない。」海辺に生き、漁業を主ななりわいにした者たちも、身分的には百姓だった。海に生きた百姓たちが、全国の海辺にいた。第一部では、江戸時代の全国の海村の姿を網羅的に紹介している。当時の漁場は目の前の海だ。見張り役〈ミネ〉が魚影を見つけると、ほら貝や孟宗竹製メガフォン〈ローフ〉、とんぼ笠といった道具で仲間に漁を知らせ、櫓を漕ぎだす。好不漁の変動は大きかった。

現代の我ら地引漁師は、スマートフォンで潮流、干満、雷雲や波高をチェックする。携帯電話一斉メールにて仲間に漁を告げる。三挺櫓の和船に船外機を積み出漁だ。一見、情報・機械化がすすんだように見えるが、肝心なところでは昔ながらの勘が頼りだ。〈西寄りの風〉や〈沖の三角白波〉を恐れたり、海鳥の群れ〈トリヤマ〉を探したり、〈魚群探知機を積んだ他所の船〉の接近に魚影の到来を信じ一喜一憂する。

第二部では、古文書を取り上げ江戸期以降の漁業の実態を時系列で追いかけている。民俗学者・渋沢敬三は西伊豆で戦国期以来の古文書を発見し、東京のアチックミューゼアムにて研究、資料集『豆州内浦漁民資料』を刊行した。当事者証言を読む。〈首つり粥〉の話。正月に津元が網子に粥をふるまい、一年の忠誠を誓わす風習があった。鮮魚を江戸に運ぶ話。馬に積んで西伊豆の村から、長岡、湯ヶ島、天城を越え網代へ、押送船で相模灘を渡り、三浦岬を回って江戸へ運んだ。網代への夜道には狼が出るため、松明を照らして守ったという。 

昔も今も浜では争いが絶えない。オーナー〈網元・津元〉と使用人〈網子〉との裁判合戦の記録を読む。盗み魚〈トウジンボウ〉、漁場荒らし、網子の争奪…昔からその都度、争いを乗り越えて生きてきた。漁業慣行〈浦例、浦法〉ができていった。

一八八六年、明治政府が制定した漁業組合準則で、海村の網元と網子をめぐる環境は、転機を迎える。全国の漁民たちに漁業組合を組織させ、組合に漁業権を与えた。網元・津元主導の漁業から、漁業組合主体の漁業へ大きく変わっていった。

筆者は本書のグラフを見て驚いた。日本人の年間一人当たりの水産物消費量は、明治、大正、昭和のはじめ、意外にも少ない。一八九〇年は約十kgで、一九九〇年の約一二〇kgを比べると十分の一以下だ。江戸時代の食卓には魚介類が今よりずっと少なかったと思われる。先人たちは保存貯蔵の知恵・工夫を凝らしてきた。だが、漁村に暮らす人を除いて、新鮮な海の幸を口にすることはあまりなかった。魚の消費が急増したのは戦後からだった。動力船、冷蔵冷凍技術のおかげだ。 祖父母や両親の食卓を思い出す。いつも焼き魚、煮魚、シジミの味噌汁、かまぼこ、ヒジキの煮つけが並んでいた。魚を食べて戦後の食糧難を乗り切ったのだ。

「海の色は日ざしに変る」海はたえず変わっていく。我らのオヤカタはつぶやく、「浜のあした、だよ。」今日とれなくても明日はなにがはいるかわからない、「浜の怪我は自分持ち。」身体に気を付けみんなで網を続けていこう。
この記事の中でご紹介した本
海に生きた百姓たち 海村の江戸時代/草思社
海に生きた百姓たち 海村の江戸時代
著 者:渡辺 尚志
出版社:草思社
以下のオンライン書店でご購入できます
「海に生きた百姓たち 海村の江戸時代」出版社のホームページはこちら
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