福島鋳郎 寄稿 三島由紀夫の“幻の作品”――「晴れた日に」を推理する 『週刊読書人』1973(昭和48)年3月26日号 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年10月13日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第970号)

福島鋳郎 寄稿
三島由紀夫の“幻の作品”――「晴れた日に」を推理する
『週刊読書人』1973(昭和48)年3月26日号 1面掲載

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1973(昭和48)年
3月26日号1面より
作家・三島由紀夫の衝撃の自決から三年後の一九七三年三月に刊行が開始された『三島由紀夫全集』は当時未発見、未刊行作品を含めて三島由紀夫の書いた文章を余すことなく収録すべく編纂され、業績の全てを網羅できるはずだった。しかし、書誌に収録できなかった幻の短編作品が一編あることが全集刊行開始の前年に公にされ、新聞にも取り上げられたことによって大捜索が行われた。果して「晴れた日に」と題された小説はどこに消えてしまったのか。戦後雑誌研究家の福島鋳郎氏が幻の作品の消息について検証を行った。(2019年編集部)
第1回
「真日本」十号は…

三島由紀夫の全業績を集大成すべき新潮社の「三島由紀夫全集」全三十五巻が、いよいよ今春から配本が開始される。序、跋、推薦文から、断簡零墨に到るまで、もちろん未発表、新発見、未刊行作品を収録すると言うのであるから、新潮社の意気込みは大変であると共に、資料蒐集に、なみなみならぬ労苦が推察される。
しかしながらその完全化への作業を進めて行く上に三島由紀夫全生涯の中でただ一つ「晴れた日に」の作品の収録があやぶまれている。
三島由紀夫が生前自らその書誌の編纂をたのまれたと言う島崎博氏(書誌研究家)の「三島由紀夫書誌」にも前記作品の所在は不明のまま未収録となった。新潮社から出されているPR誌「波」(昭47・11)のコラムの中で島崎博誌は、その書誌の編纂の苦労について語られ、ついで三島由紀夫の蔵書の中にもこの作品の掲載号が見つからずついに幻となったとのべている。
これに関連して昭和四十七年十一月二十三日付「読売新聞」紙上で〈一七八作品中ただ一編消えたまま 幻の短編「晴れた日に」完全集大成へ“捜索”開始〉なる見出しで次のような記事が紹介された。
書誌に収録出来なかった幻の作品の行方について島崎氏から全集編集のスタッフに話がもたらされて追跡が始まった。
この「晴れた日に」は終戦直後に創刊された「真日本」のいずれかの号に掲載されたと当時の「真日本」関係者等は証言した。しかし関係者等の間では九号までしか手持がなく、その全号のいずれにも「晴れた日に」の作品の収録は見当らず、最後の号となった十号に望みをたくし、その関係者等の一人である当時「真日本」の東京駐在文芸記者であった西川氏は、三島由紀夫との出合いをこう語った。
西川氏は戦前、台湾で雑誌「文芸台湾」(台北市大正町一の二文芸台湾社)を発行していた。十六年十月号に自作の詩「小さい鬼の歌」を載せた所、三島由紀夫と名乗る学生が、東京から「とてもいい。私はこの詩が好きだ」と言うような手紙を寄こした、と言う。
昭和二十年敗戦、引揚げて雑文を書いていた西川氏は二十二年三月号の「大衆文芸」に「双蝶記」を発表、この雑誌を三島に送った。礼状の後を追うように三島がたずねて来た。
たまたま前記「真日本」の文芸記者担当をしていた西川氏はその雑誌に執筆を依頼、二十二年秋、三十枚たらずの原稿が送られて来た。題名は「ある晴れた日に」と言うものであったと言う。
しかし、すぐ後から「あの題名は歌劇『蝶々夫人』の中の歌と同じなので『晴れた日に』と直してください」と言うハガキが来たと言う。西川さんは大阪に本社をもつ真日本社へその原稿を送った。
しかし、十号はなかなか西川氏の前に現われず三島は「掲載しないのなら返して下さい」と返送をたのんだと言う。
十号の発行が遅れたのであるが(昭23・5)その理由は、編集方針がGHQからにらまれたと言われるが真相は明らかでない。
それでその雑誌「真日本」第十号さがしが始まったのである。
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