菅谷憲興氏ロングインタビュー 世界文学の前衛/中心で ギュスターヴ・フローベール『ブヴァールとペキュシェ』新訳をめぐって(作品社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年10月18日 / 新聞掲載日:2019年10月18日(第3311号)

菅谷憲興氏ロングインタビュー
世界文学の前衛/中心で
ギュスターヴ・フローベール『ブヴァールとペキュシェ』新訳をめぐって(作品社)

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『ボヴァリー夫人』や『感情教育』『サランボー』といった作品で知られる作家ギュスターヴ・フローベールの遺作『ブヴァールとペキュシェ』は、研究者のあいだでも未だ〝謎の作品〟として研究・解釈がつづけられている。未完のため、また作者自身が第二部を〈引用集〉として構想していたためもある。この大作の新訳が先ごろ、作品社より刊行された。訳者の菅谷憲興氏に作品の魅力と、その楽しみ方についてお話をうかがった。   (編集部)

第1回
謎めいた作品

菅谷 憲興氏
――菅谷さんの新訳により、フローベールの未完の遺作『ブヴァールとペキュシェ』が、現代に蘇りました。蓮實重彦さんが次のような推薦文を寄せています。「翻訳も、解説も、訳注もほぼ完璧である。この作品を読まずに、もはや文学は語れない。自信をもってそう断言できることの至福の悦び……」。
これほど面白い小説が、岩波文庫版(品切れ中)と『フローベール全集』(筑摩書房)版の翻訳があるにせよ、一般の読者には、長らくアクセスしにくい状況にありました。このこと自体、大きな謎である。それが一読後の率直な印象です。
菅谷  
 ひと言で言って、こんなに面白い小説はないと思います。推薦文を寄せてくださった蓮實さんも以前からおっしゃっていますが、フローベールで本当に重要なのは、『ボヴァリー夫人』と『ブヴァールとペキュシェ』です。一番完成度が高く、リーダブルにまとまっているのが『感情教育』なんですが、これは『ボヴァリー夫人』で「散文の近代芸術」という問題に目覚めた作家が、成熟した先に書いた小説という印象があります。一方で、『ブヴァール』は成熟とは無縁な、様々な矛盾を抱えこんだ作品です。ちなみに、フローベールは『ブヴァールとペキュシェ』を書いている途中、姪の破産騒動が生じたため、執筆を一度中断しているんですけれども、その時に、リハビリを兼ねて『三つの物語』を書いています。この作品も非常に読みやすく、かつ密度が濃い。フローベールは、そうした質の高い普通の小説を、いつでも書ける人だった。でも『ブヴァールとペキュシェ』は、明らかに普通ではない。そこがやっぱり面白いんですよ。
工藤庸子さんが、エドワード・サイードの『晩年のスタイル』に触発されたエッセイを書いていらして(『女たちの声』所収)、僕もそれに触れた文章を、『文學界』(十一月号)に寄せました。サイードはおもに音楽家の例を中心に論じていますが、文学者もまた最晩年を迎えた時、何だかわけのわからない作品を、突然書きだすことがあります。ゲーテの『ファウスト』第二部は遺作ですし、ジョイスであれば『フィネガンズ・ウェイク』、フローベールの場合は『ブヴァールとペキュシェ』。プルーストの『失われた時を求めて』も、壮大な遺作と言えなくはない。一体彼らは、なぜ最後の最後に、これほど謎めいた作品を書いたのか。

――確かに『ブヴァールとペキュシェ』という小説には、夥しい数の哲学者や科学者、作家、政治家らの名前とその著作が、次から次へと登場し、読者は最初面喰うかもしれません。物語は、菅谷さんが解説で説明されているように、ブヴァールとペキュシェという初老の男たちが、何かに興味を持ち、書物で学んで、自ら実践し、失敗する。基本的には、その同じ図式が延々と繰り返される(興味の矛先は、農学、造園術、化学、医学、地質学、考古学、歴史学、文学、政治学、恋愛、体操、オカルト科学、哲学、宗教、教育学など、あらゆる領域におよびます)。ただ、主人公二人の掛け合いや、物事への取り組み方、失敗の有り様、その後の達観したかのような物言い、あるいは場面転換の仕方など、描写のひとつひとつが、読んでいて実に面白い。
そもそも新訳を手掛けたきっかけは、「ポケットマスターピース」(集英社)のフローベールの巻が編まれる際、編集委員の野崎歓さんに参加を呼びかけられたことだった。野崎さんには、『ボヴァリー夫人』と『感情教育』を勧められたけれど、菅谷さんは、あえて『ブヴァールとペキュシェ』を選ばれたそうですね。
菅谷  
 この作品には、最初に言われたように、既訳があります。それに大きな不満があったということではありません。ただ、どれも翻訳に際して使っている元のテキストが古いんですね。原文が改竄されている箇所もあります。たとえばⅩ章の最後の部分に「筆写(コピー)をしよう」とあります。ここが旧訳だと「昔のように筆写をしよう」となっていたと思います。「昔のように〔comme autrefois〕」という言葉を、フローベールの姪が勝手に付け加えた。死後刊行の作品なので、色々手を入れて出版しているんですね。昔はその版に則って訳すしかなかったので、誤訳ではありません。しかし、今の一文は解釈にも関わってくることです。つまり「昔のように」という言葉を足すことによって、物語の円環が閉じられてしまう。元々筆耕だった主人公が仕事を辞めて、片田舎暮らしをしながら、書物と実践の中に生きる。それが、最後にまた筆耕の仕事に戻るという形になります。そこは小説の根本に関わる問題です。ふたりは元々の職業に戻ったわけではないと、僕は考えています。さもなければ、構想のまま終わった小説第二巻において、「書き写す」という行為がもったであろう決定的な新しさが完全に消えてしまう。
これは、ひとつの例ですが、死後刊行の作品には往々にしてあることで、テキストクリティックがしっかりしていないため、そうした齟齬が少なからず生じるんですね。だからこそ訳し直してみることに意味があると、自然に思うようになったということです。実際、今回訳していて解釈に迷った場合は、旧訳や英訳には頼らずに、もっぱら小説の草稿を調べて、どういうプロセスを経てこれこれの表現が出てきたのかを確かめるようにしました。それと、逆にお聞きしたいんですが、この小説は、注がないとなかなか読めないですよね。

――特に日本の読者には難しいと思います。
菅谷  
 岩波文庫版は、わりと注がついていますが、この間の研究の進展で、さらに詳しい情報が明らかになってきています。インターネットの普及によって、今やいつでもフローベールの草稿が見られますし、作者がどんな本を読み、どこから情報を引っ張ってきたのかが全部わかる。そういう実証的な研究の成果は最大限に活用させてもらいました。煩雑さを避けるために、注はあまり細かくなり過ぎないようにと心がけましたが、フローベールが参照した書物に関しては、既訳とは比べ物にならないぐらいに示せるんじゃないか。その点でも新たに訳す意味があると思ったわけです。

――今回付された注は、岩波文庫版と比較すると、Ⅰ章「19:36」、Ⅱ章「16:49」、Ⅲ章「59:90」と格段に増えており、読み進めていく上での最良の導きの糸になっています。また『紋切型辞典』との対応関係を、逐一示されている。そうした広がりの中で読んでいくこともできます。
菅谷  
 全部対応しているんですよね。言葉がネットワーク状に繋がっている。逆に『紋切型辞典』は、解説にも書きましたが、フローベールから見て「敵」であるブルジョワの言葉であり、一冊の書物として読むよりは、『ブヴァールとペキュシェ』や『ボヴァリー夫人』といった作品とつき合わせて読むことによって、初めて意味が出てくるものだと思います。そういうこともあって、対応関係を可能な限り参照できるようにしました。注に関しては、フランス語のエディションも含めて、世界で一番詳しいと自負しています。

――「ポケットマスターピース」シリーズで訳されたのが、全体のほぼ三分の一です。それから三年、改めて全編の翻訳に取り組んでみて、一番難儀だったのはどのあたりでしょうか。
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この記事の中でご紹介した本
ブヴァールとペキュシェ/作品社
ブヴァールとペキュシェ
著 者:ギュスターヴ・フローベール
翻訳者:菅谷 憲興
出版社:作品社
以下のオンライン書店でご購入できます
「ブヴァールとペキュシェ」出版社のホームページはこちら
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