竹山博英・小野正嗣対談 プリーモ・レーヴィ生誕一〇〇周年 『プリーモ・レーヴィ全詩集 予期せぬ時に』(岩波書店)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年11月1日 / 新聞掲載日:2019年11月1日(第3213号)

竹山博英・小野正嗣対談
プリーモ・レーヴィ生誕一〇〇周年
『プリーモ・レーヴィ全詩集 予期せぬ時に』(岩波書店)

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アウシュヴィッツ強制収容所での抑留体験を描いた代表作『これが人間か』で、イタリア現代文学を代表する作家となったプリーモ・レーヴィ(一九一九―一九八七)。レーヴィは記録文学や短編小説の分野で成功をおさめ、「アウシュヴィッツの悪」を克服した明晰で理知的な作家として評価を高めていた。しかし一九八七年、レーヴィは自死の道を選び、世界に大きな衝撃を与える。彼はその晩年、一冊の詩集「AD ORA INCERTA」を刊行していた。その唯一の詩集が今年七月、日本におけるプリーモ・レーヴィ研究の第一人者である竹山博英氏の翻訳により、『プリーモ・レーヴィ全詩集 予期せぬ時に』(岩波書店)として刊行された。プリーモ・レーヴィ生誕一〇〇周年にあたる節目の年として、一〇月一〇日、イタリア文化会館で開催された、竹山博英氏と作家の小野正嗣氏による講演をレポートする。          (編集部)
第1回
プリーモ・レーヴィ作家とその生涯

プリーモ・レーヴィ生誕一〇〇周年記念講演 <竹山博英・小野正嗣対談>
『プリーモ・レーヴィ全詩集 予期せぬ時に』を語る(於:イタリア文化会館)

――冒頭、主催者であるイタリア文化会館のカルヴェッティ・パオロ館長(ヴェネツィア「カ・フォスカリ」大学教授)より、登壇者の紹介及び本講演の主旨が次のように述べられた。

「竹山博英さんは、一九八〇年からプリーモ・レーヴィの翻訳書を多数出版し、日本におけるプリーモ・レーヴィ研究の基礎を築いてこられた。そして奇しくもプリーモ・レーヴィ生誕一〇〇周年となる本年、『プリーモ・レーヴィ全詩集 予期せぬ時に』を上梓された。戦争を知らない世代が圧倒的に増えた今、この翻訳書が国内で翻訳された意義は大きい。小野正嗣さんは大学で教鞭を取りながら『九年前の祈り』で二〇一五年芥川賞を受賞されるなど作家として活躍される一方、海外小説も多数翻訳し、精力的に海外文学を日本に紹介している。同時にイタリア文学にも深い関心を寄せ、『どこか、安心できる場所で 新しいイタリアの文学』(一〇月末刊行、国書刊行会)の序文も担当して下さっている。そのお二人が今日はレーヴィの遺した詩について取り上げる。アウシュヴィッツの死の世界から抜け出せないレーヴィが何を問題とし、何に苦しんでいたのか、そして今を生きる私たちにどのような意味があるのか、みなさんと一緒に考える契機になれば幸いと考えている」。

講演では、『プリーモ・レーヴィ全詩集 予期せぬ時に』から五篇の詩を取り上げ、イタリア語による詩の朗読と詩に描かれた現地の写真などを交えながら対談形式で進められた。
竹山 
 今日は私と小野さんとで意見を交換しながら進めていこうと思うのですが、まず最初にプリーモ・レーヴィという人がどういう作家であったか、彼の生涯を追うような形でお話しして、その後でこの詩集がどのように書かれたかについて私の方から解説します。今日は五つの詩を取り上げて、私が現地で撮った写真も挿入しながら、小野さんと一緒に論じていきたいと思います。

    *

▽生い立ち(一九一九年〜一九四一年)
竹山 
 プリーモ・レーヴィは一九一九年七月三一日、北イタリアの工業都市トリーノで生まれました。彼の家はユダヤ人の家系で、父のチェーザレ・レーヴィは電気技師でした。彼はトリーノの名門校マッシモ・ダゼリオ古典高校の中等部から高等部に進み、一九三七年トリーノ大学の理工学部に入学して化学を専攻します。しかし彼が大学に入学して一年目の一九三八年に人種法が制定されます。これはユダヤ人の市民的権利を制限する法律で、もっと前に制定されていたら、彼は大学に入学できなかった可能性がありました。レーヴィの生涯を考える時にとても重要なことなのですが、イタリアでは一九二二年から一九四三年までファシズムが政権を執ります。ですから一九一九年生まれの彼はファシズムの統治下で青春時代を過ごしたということなのです。彼は苦労して卒業論文を執筆し大学を卒業しますが、職に就けなかった。それでユダヤ人ということを隠しながらいくつかの会社に勤めます。

▽反ファシズムのレジスタンス(一九四二年〜一九四三年)
竹山 
 レーヴィは、ミラーノのヴァンダー社(スイスの製薬会社)に勤めている時に、反ファシズム思想を持つ若者たちと活動をともにし、一九四二年に反ファシズムの運動体に加わります。それは「正義と自由」という自由主義者たちが作った団体で、「正義と自由」は後に行動党という政党を組織し、反ファシズムの地下運動を展開します。彼は行動党に入党し、反ファシズム活動をさらに積極的に行いますが、一九四三年にイタリアがナチスドイツとの同盟から一方的に離脱すると、同盟の解消を認めないドイツがイタリアを軍事的に占領します。そういう中でレーヴィは銃を取って戦う道を選び、ヴァル・ダオスタの山中でパルチザン部隊のレジスタンス活動に加わります。

▽フォッソリ抑留収容所からアウシュヴィッツ強制収容所(一九四四年〜一九四五年)
竹山 
 一九四三年一二月、レーヴィはファシスト軍に隠れ家を急襲され捕らえられます。そして、アオスタの憲兵詰め所で尋問された時、自分がユダヤ人であることを明かし、フォッソリ抑留収容所に入れられます。一九四四年二月、彼はそこからアウシュヴィッツに送られた。彼が解放されたのは一九四五年の一月で、約十一ヶ月の間地獄のような抑留生活に耐え、偶然生き残った。解放後もソ連領内に抑留され一九四五年十月、漸くイタリアに帰ってきた。しかし、フォッソリからアウシュヴィッツに送られた六五〇人のユダヤ人のうち、帰ってきたのは二三人しかいませんでした。その中の一人がプリーモ・レーヴィでした。

▽『これが人間か』から『溺れるものと救われるもの』(一九四六年〜一九八七年)
竹山 
 一九四六年から、レーヴィは化学技師として最初はドゥーコ社、次にシーヴァ社という塗料会社に勤めます。それと同時に執筆を開始し、一九四七年に初版の『これが人間か』を出して作家として出発する。ところがこの初版は話題にならず、本も売れませんでした。一九五八年に初版を増補する形で第二版を出しましたが、この第二版が高く評価されて作家として認められた。一九七四年に五五歳で会社を辞めてからは、作家活動に本腰を入れて取り組み、一九七五年に『周期律』、一九八四年に詩集『AD ORA INCERTA』、一九八六年にアウシュヴィッツに関する重要な評論集『溺れるものと救われるもの』を出しますが、翌一九八七年、レーヴィは自ら命を絶ちます。
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この記事の中でご紹介した本
プリーモ・レーヴィ全詩集 予期せぬ時に/岩波書店
プリーモ・レーヴィ全詩集 予期せぬ時に
著 者:竹山 博英、プリーモ・レーヴィ
出版社:岩波書店
以下のオンライン書店でご購入できます
「プリーモ・レーヴィ全詩集 予期せぬ時に」出版社のホームページはこちら
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