ドゥルーズの自然哲学 断絶と変遷 書評|小林 卓也( 法政大学出版局 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年11月9日 / 新聞掲載日:2019年11月8日(第3314号)

ドゥルーズの自然哲学 断絶と変遷 書評
特異な人生の霊性を模索する声
ドゥルーズの思想的変遷を描く道筋

ドゥルーズの自然哲学 断絶と変遷
著 者:小林 卓也
出版社: 法政大学出版局
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 ドゥルーズの思想的変遷を描くには、いくつもの道筋が考えられるが、画期をいつに設定し、何個の時期に分け、各時期をいかに特徴づけるか、という問いはおよそ避けがたいように思われる。小林卓也『ドゥルーズの自然哲学』の答えは、一九七〇年前後(ガタリとの出会いの時期)を境に、前期/後期というふたつの時期に割るという、オーソドクスなものである。前期を特徴づける「脱」人間主義は、人間主体中心主義を前提としながらそれを解体する営みを指し、後期の「非」人間主義は、いかなる契機においても、「人間」がもはや浮上してくることのない、「自然」にもとづく哲学を指す。そして、そのあいだの転換期として、「人間と自然の同一性」を主張する一九七二年の『アンチ・オイディプス』が挟まるとする。

論述全体の軸となるのは、ドゥルーズとカント(主義)との関係であり、ベルクソン論もその枠内に組み込まれる。いわゆる相関主義の問題を念頭に置きつつ、ドゥルーズ思想を腑分けする哲学的読解の試みであると言ってもよい。たえず明晰に進められる無駄のない記述が、きわめてスリリングなものとなるのは、たとえば、カント論とクライン論、カント論とベルクソン論を、緻密にすり合わせてゆくときだろう(前者は内在系の問題、後者は強度=内包量の問題を通して)。カントの内包量とベルクソンの質的多様体、さらには、ドゥルーズの個体化が、縒り合されて、「強度」という概念へと仕上げられてゆくさまが、こうして浮かび上がってくる。

一方、おそらく著者自身も自覚しているはずだが、いくつか指摘しうる点もある。たとえば、論述そのものが「前期」に偏っており、題名にある「自然哲学」の内実を描く「後期」の記述が弱いこと(だからだろうか、スピノザの名もあまり出てこない)。「自然」のなかで、『資本主義と分裂症』における政治性が、どのように位置づけられるか不分明であること(マルクス読解の曖昧さ)。ひとつの時期、ないしは、一冊の著作を、一枚岩と見なしうるのかということ(『判断力批判』の能力論のように読むことはできないのか)。そして、副題にある「断絶と変遷」と同時に、連続性や継承が強く際立つように思えること(カント主義が「主観」を離れて「自然」へと拡張され、「自然の感性論」となると指摘されるからには)。とはいえ、こうした指摘はむろん、カント主義に対する、一筋縄ではいかないドゥルーズの態度のありようを、精緻かつ明晰にまとめあげた本書の成果を、いささかも損ねるものではないだろう。

小林は、ドゥルーズ研究の先達への謝意を表明することで、『自然哲学』を締めくくる。では、日本において、ドゥルーズの「哲学」を語るとは、当初、いかなる事態だったのか。

周知のように、小泉義之は、日本におけるドゥルーズの「哲学」的受容を牽引してきた第一人者である。『ドゥルーズの霊性』(以下、『霊性』)の「後書」によれば、同書所収の論文のように、ドゥルーズを「哲学研究対象」として扱うことは、当の哲学科において、きわめていかがわしく、不埒なことであった。「哲学」としてドゥルーズを論ずることは、それゆえ、闘いの狼煙を上げることだったにちがいない。

その一方ですぐさま、ドゥルーズが「哲学研究対象」にならないことは、当然にも、この哲学者にとって「名誉なことである」とも追記される。つまりドゥルーズは、対象化から逃れるより繊細で、より過激な、対抗‐哲学的な存在であることを、断じて忘れるなかれ、と言うのである。

こうした姿勢は、おそらく「哲学研究」をめぐる緊張を、『霊性』全篇に張り巡らせることになる。限定された狭い共同体のなかで不埒な存在であり続けることの矜持とともに、ドゥルーズを「研究」のなかに封じ込めることで、この逃走し続ける哲学者の描いた線を、決して濁らせてはならないという「インテリゲンティア」の倫理が、そこにはある。

「ドゥルーズの霊性」と「フーコーの霊性」というふたつの霊性のはざまで、読者は一貫して聞くことになるだろう。「共同体」のエコノミーと、「力の市場」――「国民国家」、「交換のシステム」、「生産関係=権力関係」、「歴史」といった領土化論理――の「外」で思考せよという声を。あるいは、一九九一年のホッブス論によるなら、「来たるべき戦士」を構成せよという声を。これは、思想的な戦争機械の声である。

ところで、ドゥルーズの「哲学的」読解を先導した小泉は、同時に、ドゥルーズの文学論を、そして、(文学)作品を、きわめて真摯に読む稀な論者の一人である。むろん、お題目としての《文学》のことではなく、具体的な作品のことだ。中原中也、鴨長明、堀辰雄を引用し、ディオゲネス・ラエルティオスと接続しながら、正面から「意味の論理学」として注釈しうる者が、果たしているだろうか。

こうした態度は、その方法論とも関わっている。小泉は、概念を具体的な事例とたえずぶつけ合わせる、過酷なまでの事例主義者である。挙げられる事例(作品、人物、病、事件、情況など)は、概念を例証する役割を担うのではなく、概念を試験し、試煉に晒すのでなければならない。そうした事例のみが選ばれるのであり、また、事例の洗礼に耐えられない概念は、すべて振り落とされる。ドゥルーズの概念も例外ではない。概念と事例のあいだに、慣れ合いやコンセンサスはない。特異点としての事例によって、概念の地図が歪み、屈折する。たとえば個体化は、もちろん、死体化の過程なのである。

そして逆に、この歪みから、事例は概念にまで高められねばならない。「現実的国家を抜け出す現実的な人物を概念へと持ち上げていくこと」、あるいは、フーコーの「イラン革命」と「宗教」を、「霊性」(革命性)へともたらすこと。なぜなら、具体的な情況が概念にまで引き上げられることで、あるいは、概念が具体的な事例と交叉することで、はじめて「政治哲学」は生まれうるからだ。これこそまさに、「革命の展望の喪失」という歴史的情況下で出版された一九九一年の『哲学とは何か』――「例」がいくつも挙げられる本である――の核にあるものだった。というより、おそらく小泉はこのようなきわめて鋭利な仕方で、「哲学とは何か」をつかみ取り、実践し続けてきたのではないか。

事例と概念の激しい摩擦を通して、小泉は、ドゥルーズのうちに、抽象的で思弁的な「生」ではなく、「人生」論を、「人間の条件」を見出す(『意味の論理学』を、はじめて日本語で読むことを可能にした小泉訳がもたらした激震の一端は、「人生」という訳語の選択にある)。この具体的な「人生」論は、しかし、あらゆる固有名を外しても読まれうるものだ。書物はひとりで立たなければならない。『霊性』全体に、「誰が語っていてもよいではないか」というフーコーの声が鳴り響く。それは、「朝に死に、夕に生まるる」を体現する、特異なある人生の霊性=革命性を模索する声でもあるはずである。
この記事の中でご紹介した本
ドゥルーズの自然哲学 断絶と変遷/ 法政大学出版局
ドゥルーズの自然哲学 断絶と変遷
著 者:小林 卓也
出版社: 法政大学出版局
以下のオンライン書店でご購入できます
ドゥルーズの霊性/河出書房新社
ドゥルーズの霊性
著 者:小泉義之
出版社:河出書房新社
以下のオンライン書店でご購入できます
「ドゥルーズの霊性」出版社のホームページはこちら
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