伊藤信吉 寄稿 情熱の人・萩原朔太郎――「全書簡集」にみるその詩的生涯 『週刊読書人』1974(昭和49)年2月11日号 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年11月10日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第1015号)

伊藤信吉 寄稿
情熱の人・萩原朔太郎――「全書簡集」にみるその詩的生涯
『週刊読書人』1974(昭和49)年2月11日号 1面掲載

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1974(昭和49)年
2月11日号1面より
「萩原朔太郎全書簡集」(A5判四五七頁・八五〇〇円・人文書院 ※1974年1月刊)が刊行された。今まで断片的にしか読むことの出来なかった朔太郎の書簡が一本にまとまったわけである。そこで編者の一人、詩人の伊藤信吉氏に朔太郎の生涯を跡づけてもらった。(編集部)
第1回
いわば「浪曼的情熱の書」


仕事をしている間は手紙など書く余裕はなく、仕事を終った後は気力が失せてしまい、やはり手紙を書くことができない。即ち筆不精の由来である。


と、アフォリズムの一篇で朔太郎はそう言っている。だが私は書簡蒐集に着手してみて、これがけっして本音でないことを知った。
明治十九年(一八八六)十一月生まれ、昭和十七年五月に亡くなった朔太郎は、電話事業の未発達時代に生涯を過したことになるが、そのために余計に手紙を書いたのではない。前橋の朔太郎生家は開業なので、比較的早くから電話があったし、世田谷区代田の自宅に電話をひいたのは、昭和十年前後であったろう。電話で用件をすませたこともあったろうが、戦前の朔太郎の友人知人――殊に詩人たちで、自宅電話を架設した者など数えるほどしか無かった。親しい友人の室生犀星は電話嫌いだった。電話の未発達ということばかりでなく、むしろ朔太郎は手紙を書くのが好きだったようだ。
四百字詰め原稿用紙に換算して、約三十枚という長文の妹ユキへの手紙がある。明治四十四年(一九一一)春の発信だが、何をそんなにしゃべることがあったのか。文中にパラソルについての講釈がある。「こうもり」という日本語の野暮ったさ。英語のアンブレラ、ドイツ語のゾンネンジルム。どれも垢抜けていない。フランス語のパラソルだけが優美だと、手紙はたちまち二、三枚になってしまう。朔太郎のその手紙によれば、パラソルという呼び方はその年あたり流行しはじめたらしい。
明治四十四年は朔太郎二十六歳に当たり、雑誌『スバル』に萩原咲二名で短歌を投稿していた時期である。当時は妹ユキあての手紙が圧倒的に多くそれは単なる通信でなく、いわば「浪曼的情熱の書」というべき性質を帯びている。その情熱は形を変えていろんな知人友人に書き送られた。手紙好きだったことはその情熱の持続からも知られるのである。
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