この映画を視ているのは誰か? 書評|佐々木 敦(作品社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年11月16日 / 新聞掲載日:2019年11月15日(第3315号)

この映画を視ているのは誰か? 書評
映画を視ることと(いう名の)批評的倫理

この映画を視ているのは誰か?
著 者:佐々木 敦
出版社:作品社
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 本書は、国内外の作家論を中心に、二〇一〇年代に記された一七本の評論からなる現代映画論集である。「あとがき」で著者自身がその経緯を記すように、本書は多彩な批評活動を繰り広げる著者にとって、実に約四半世紀ぶりに刊行する映画論集となる。もともと最初の二冊の著作が映画についてのものだったものの、その後、つい数年前まで著者が長らく映画批評から遠ざかっていたためだ。とはいえ、映画の現在に時に鋭く、時に鷹揚に肉薄する本書のまなざしは、そんなブランクが嘘のように、アピチャッポン・ウィーラセタクンからアラン・ロブ=グリエまで、濱口竜介から鈴木卓爾、清原惟まで、注目の作家たちと作品の核心をヴィヴィットに捉えている。

映画論集としての本書の魅力を決定づけているのが、著者独特の映画へのアプローチである。「私が或る映画を視ているとき、私は何を視ているのか?」が本書を貫く大きな問いであり、「そこには倫理と原理がある」(三一七頁)と強調する著者は、批評対象とする映画作品を論じる際、そのシーンや展開を――部分的にはやや冗長にも見えるほどに――巨細に及んで徹底して描写=記述していくという方法を取る。

もとより著者は、これまでにもさまざまな場で自身の批評文の特徴を「ロジックとレトリックの一致」という表現で表明してきた。このような、いわば作品の細部について精細な文章で記述することが、そのまま書き手固有の批評的論理や分析へと転化するというアクロバティックともいえるアプローチは、映画をめぐる前著『ゴダール原論――映画・世界・ソニマージュ』(新潮社)でも『さらば、愛の言葉よ』の分析ですでに実践されていた。とはいえ、前著における蓮實重彥を髣髴とさせる巧緻なテマティズムや、あるいは数々の概説的な著作における鮮やかな要約ぶりといった著者の融通無碍な手腕を知る読者からすると、安易な要約や構造化を繊細に避ける本書の論述は、やはり周到に選択された書きぶりだと見てよいだろう。

そう、それはまさに、「そこに何が視えていたのか」「それを視ている私はいかなる存在としてあったか」――すなわち、本書の題名通り、「この映画を視ているのは誰か?」という問いをパフォーマティヴに示すものに他ならない。例えば、著者は『散歩する侵略者』を論じながら、黒沢清の示す映画的倫理を以下のように指摘する。「一般名詞ではなく、固有名の切実さを描くこと。全体性などには目もくれず、あくまでも個体のかけがえのなさに付くこと。そればかりか、固有名こそが一般名詞の「概念」の改訂を促すのだということ。[…]黒沢清は、この映画で、このような「倫理」を提示しているのだと私は思う」(七〇―七一頁)。しかし、以上を踏まえると、この言葉は他ならぬ佐々木敦という書き手自身の批評的倫理をも明かすもののようにも読めるだろう。また、それゆえに著者自身は「いわゆる視覚文化論的なものとはまるで違う」と本書のスタイルを断るものの、例えば映画の「幽霊性」から非人称的なカメラの問題まで、実際は現代映画にまつわる重要な問題系にも通じる内容を多く含んでもいる。

著者は末尾で「これは私の最後の映画論集になる(かもしれない)」(三一八頁)と書く。だが本書を読み終え、その充実ぶりに触れた読者の一人としては、この予告がそう遠からぬ未来に裏切られることを心から願っている。
この記事の中でご紹介した本
この映画を視ているのは誰か?/作品社
この映画を視ているのは誰か?
著 者:佐々木 敦
出版社:作品社
以下のオンライン書店でご購入できます
「この映画を視ているのは誰か?」出版社のホームページはこちら
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