死んでしまう系のぼくらに 書評|最果 タヒ(リトル・モア)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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【書評キャンパス】大学生がススメる本
更新日:2019年11月16日 / 新聞掲載日:2019年11月15日(第3315号)

最果タヒ著『死んでしまう系のぼくらに』

死んでしまう系のぼくらに
著 者:最果 タヒ
出版社:リトル・モア
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 たとえば、私が、あなたが「キスは愛情を表現する方法のひとつである」ことを知らなかったとして、私達はそれでも相手の唇を、自分の唇で塞ぎたいと思うだろうか。

世界には、自分と他人が分かり合えたつもりになるためのテンプレートが溢れている。私達は感情を様々なテンプレートに載せて表現することで、相手に気持ちを伝えられている、あるいは相手の感情を理解している、と思おうとしている。悲しい時には泣き、嬉しい時には笑う。愛しているなら抱きしめ、キスをし、セックスを行なう。そもそも、悲しい、嬉しい、愛しているといった言葉自体が、情報を円滑に伝達するために使われる、テンプレートだと言ってもいい。

しかし、私の「悲しい」とあなたの「悲しい」が、同じであるはずがない。私とあなたは違う人間なのだから当然だ。私が悲しいと感じた時の、脊椎の爛れる心地や、目眩に似た脱力感や鼻の奥でじんと広がる失望の匂いを、あなたが本当の意味で、分かることなどできない。同時に、私もあなたが流す涙の温度や、歯ぎしりの音色を、一生知らないままで生きていくのかもしれない。言葉とは、私達の感情からそんな「分かり合えない」部分を削り落とし、綺麗で簡潔な形に直して、それを相手の元に届けるものだ。けれども、真に大切なのは、たとえば、「悲しい」という3文字に収まらなかった部分なのではないか。そうであれば、人と人は決して、分かり合うことなどできない。それなのに、言葉にすれば同じ「悲しい」だからと、分かり合えたことにされてしまう。そういう言葉の暴力性に打ちのめされながら、私達は生きている。

詩集『死んでしまう系のぼくらに』に収められた言葉は、そのような暴力性の根源にある「分かりやすさ」を脱ぎ捨てて、そこに存在している。人々の中にある感情を、まるでデッサンをするように、最果タヒは言葉にした。白い紙の中から聞こえる、彼女の文字列の静かな呼吸は、今まで言葉の網で掬われなかったあらゆる感情を、決して否定しない。

「言葉が想像以上に自由で、そして不自由なひとのためにあることを、伝えたかった。私の言葉なんて、知らなくていいから、あなたの言葉があなたの中にあることを、知ってほしかった(あとがきより)」

私達の世界には言葉に失望している人が沢山いる、と感じる。彼らは、まるで「言葉なんて無意味だ」と声高に叫ぶように、極端に大きくて曖昧な言葉、たとえば「スゴい」「エモい」「カワイイ」といった一言で、自分らの感情を片付けようとする。言葉の代わりに、声音や視線といった肌感覚で感情の共有を図っているのかもしれない。まるで動物の鳴き声みたいだ、と思う。そういう、言葉に期待することをやめた人々にこそ届くのが、最果タヒの言葉なのだ。

言葉はいつもあまりに乱暴に、私達を区切る。けれど決してそれだけではないと、彼女の詩は思い出させてくれる。誰にも伝えられないままで死んでいったあなたの感情を、最果タヒだけは諦めなかった。言葉にし、そうしてこの詩集をつくった。あなたはもう、あなたの感情を取捨選択しなくていい。この1冊には、そんな力強い希望が満ち満ちている。
この記事の中でご紹介した本
死んでしまう系のぼくらに/リトル・モア
死んでしまう系のぼくらに
著 者:最果 タヒ
出版社:リトル・モア
以下のオンライン書店でご購入できます
「死んでしまう系のぼくらに」出版社のホームページはこちら
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