人が愛し合うごく普通の物語を革新する ワヌリ・カヒウ『ラフィキ ふたりの夢』|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年11月18日 / 新聞掲載日:2019年11月15日(第3315号)

人が愛し合うごく普通の物語を革新する
ワヌリ・カヒウ『ラフィキ ふたりの夢』

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11月9日(土)から、シアター・イメージフォーラム他、全国順次公開 ©Big World Cinema.
ワヌリ・カヒウの『ラフィキ ふたりの夢』が秀逸なのは、ケニア映画だからでも女性同性愛を描いているからでもない。ただ単に一本の映画として素晴らしい。ケナとジキが初めて二人きりで会うくだりを思い出そう。道端に洗濯物が干されている。彼女たちは路上のカフェでソーダを飲み、やがて立ち上がる。共同住宅の屋上に出て進む二人をカメラが後から追い、風に翻る屋上の洗濯物が画面を一瞬覆う。風の音が響き、鳥が鳴くこのショットが圧倒的だ。二人は多数の洗濯物の間に座って語り合う。「看護師になりたい」とケナが言い、「医者にもなれるのに」とジキが返す。洗濯物が風になびき、ジキの顔の上で光と影が交替するのが、この上なく映画的だ。

少年たちに交じってケナがサッカーをする場面がある。ゲームを見ていたジキも途中から加わる。ボーイッシュな装いが好きなケナは少年たちとほぼ同じ服装だが、ジキはフェミニンな装いを好み、スカート姿でボールを追いかける。すると、それまで晴れていたのに突然雨が降り出す。ケナが一人で駆け出し、ジキがその後を追う。二人は半ば花に覆われた廃車のなかに入る。ケナは俯きやがて顔を上げ、二人は無言で見つめ合う。二人の関係が友情を超えたものへ変わり出す時に降るこの雨が、映画的な感性を揺さぶる。

この廃車は二人にとって特別な場所になる筈だった。実際、ある夜、ケナはそこでケーキに蝋燭を立てて、ジキの誕生日を祝う。そのまま二人は口づけを交わし、一晩を過ごす。だが、別の夜に、町の人々が二人を廃車から引きずり出し、暴力を振るって仲を引き裂くのだ。こうして、愛のための私的な空間はどこに存在するのかが、この映画の問いになる。社会は公的な空間に関わるだけでなく、私的な空間も管理しようと浸食し圧迫する。社会の外に逃れようとしても無駄なのか。彼女たちの愛の場所などどこにもないのだろうか。

『ラフィキ ふたりの夢』は映画の基本を尊重している。例えば、冒頭でケナは階段の踊り場にいて、仲間たちは上にいる。また、後にジキの母が娘とケナの関係に気づくと、二人は部屋から逃げ出し下の通りを駆ける。人物の高さに差を設けて俯瞰ショットを自然に導入するこうした演出は、まさに基本通りだ。振り返る仕草がラストのここぞという瞬間に登場するのもいい。しかし、基本を踏襲するだけで終わらないのが、真に重要な点だ。例えば、フランチェスコ・ロージの『挑戦』やエットーレ・スコラの『特別な一日』など、イタリア映画では共同住宅の屋上の物干し場がよく描かれ、そこに真っ白なシーツが干される。だが、このケニア映画で干されるのは全てカラフルな洗濯物であり、このことが定石とも言える表現に全く新たな味わいを与えている。また、ケニアの陽光のもとで黒人の顔を撮るのは、白人の顔を撮るのと同じやり方では上手くいかず難しい。だがこの映画は、順光でも逆光でも、ケナとジキの顔をこの上なく魅力的に撮影することに成功する。

女性同性愛を描く『ラフィキ ふたりの夢』を、先鋭的な物語を普通のやり方で語る映画と考えるならば、それは大きな間違いだ。人と人が愛し合うという物語。基本を踏まえつつもそれを革新する語り口。これはごく普通の物語を先鋭的なやり方で語る映画なのだ。

今月は他に、『少女は夜明けに夢をみる』『クロール―凶暴領域―』『花咲く部屋、昼下がりの蕾』などが面白かった。また未公開だが、ワヌリ・カヒウの『囁きから』も良かった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)
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