近くても遠い場所 一八五〇年から二〇〇〇年のニッポンへ 書評|木下 直之(晶文社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2016年12月16日 / 新聞掲載日:2016年12月16日(第3169号)

近くても遠い場所 一八五〇年から二〇〇〇年のニッポンへ 書評
昨今この国が直面する状況を俯瞰しつつ思考する一書

近くても遠い場所 一八五〇年から二〇〇〇年のニッポンへ
出版社:晶文社
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先日(九月二十三日放送)の「タモリ倶楽部」という長寿テレビ番組「銅像の股間を考える 美の巨○ンたち」にゲスト出演している木下先生の姿があった。公園や駅前広場に立っているような銅像・男性裸像に関わる真実を本にまとめたのが『股間若衆 男の裸は芸術か』(新潮社)である。

読み返すつもりで『股間若衆』を本棚から取り出し、先生の小便小僧的イラスト付サインを眺めていると、最新著書の書評を、との依頼メールが届いた。先生への恩返しのつもりでお受けしよう。

手元に届いた本の、うっすらメモ書きが見えるカバーを開いて「あとがき」を見ると、「この本には五十歳の前後に書いたものを集めた」とある。僕も五十一歳になったばかりで、ちょうど今の思考回路にシンクロしてしまい、おかげで文頭からスラスラと読めた…、というとそうでもない。人生五十年、と誰かが言った言葉が脳裏にこびり付くようで、歳五十というのは、何か人生の儚さを知る年でもあり、人の世の無常を感じる歳頃なのだろうか。

歴史に自分を映してたどるという作業には、どこか無常観がある。歴史的場面・事件に関わった人物の立場・振舞いを丹念に明らかにしつつ、映画やドラマのように登場人物の心象に寄り添いながら、いつしか過去を振り返り、時代の真実に迫る作業であるからだろう。それが木下先生の節まわしにかかると、ノンフィクション小説を読んでいるような味わいを持ち、ペリーもマッカーサーも重光葵も…登場人物が動き出す、もはやそれはナオユキ・ワールドと名付けたい世界観と言えそうだ。

さて本書は、前著『世の途中から隠されていること 近代日本の記憶』で対象とした、一八五〇年以前の近代史以前から続く近現代の、「およそ一五〇年の日本社会の変遷を、時空を超えてほりおこす大人の遠足。」(帯より)でもある。「遠足」に出るような心持ちが「ひょんなことから」思いつきのような、しかし各章の中の奥底で、ざっくりと近現代の日本の深層を削りとり、その横断面を垣間見せてくれる。

日常の「ひょんなことから」、私たちが暮らし、そこに「美」なるものさえ生み出すという「文化」の有り様を見つけるためのテクニックを、僕は木下先生から直々に教わったことがある。それはまず、ぐっと対象から「離れて見る」というコツである。

先生が僕の職場である東京国立博物館(以下、東博)について講演をした時であったか、ご存知の瓦屋根が載る東博・本館の建物から視点を離して、上野公園の中へ、更に噴水池を越えて、更に離れていく…さて何が見えてくるのか、上野公園全体なのだが、そこで何が起きたのか、西郷さんだか、博覧会だったか、肝心なところを僕は失念してしまっているのだから情けない。

また本書は博物館の意義の読み直しの必要性について言及する。「博物館ほど手軽に歴史にふれた気にさせる場所はない。政治的・外交的難題をたちどころに鎮静させる万能薬の趣きがある。博物館というメディアにおける展示という行為の限界に自覚的でなければ期待はふくれあがるばかりだ。」である。うーむ。ここ十年ほど日本の政治的動向を透かして見ながらのコメントで、「戦争博物館のはじまり」の項は結ばれている。そうやって自分の目で見つつ、今流行りのドローンのように空中散歩をしつつ、遠足の道すがら記されたノートの集積を見たければ、まず本書を開くべきだろう。

「ノートがさらに百冊ほどたまったら、次の本を出しましょう。」とあとがきにあるのを楽しみにして、それまで本書にある「近くても遠い場所」を実際に歩いてみたい。
この記事の中でご紹介した本
近くても遠い場所 一八五〇年から二〇〇〇年のニッポンへ/晶文社
近くても遠い場所 一八五〇年から二〇〇〇年のニッポンへ
著 者:木下 直之
出版社:晶文社
以下のオンライン書店でご購入できます
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