匂いと香りの文学誌 書評|真銅 正宏(春陽堂書店)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年11月30日 / 新聞掲載日:2019年11月29日(第3317号)

匂いと香りの文学誌 書評
「においこそ小説の王道であったか!」
芳香、薫香、幽香、悪臭、異臭、性臭、多様な「におい」が立ちこめる文学

匂いと香りの文学誌
著 者:真銅 正宏
出版社:春陽堂書店
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「におい」、この摩訶不思議なもの。「匂い」とも書くし、「臭い」とも書く。前者はニュートラルな印象だが、後者はネガティヴな価値評価をふくんでいるようだ。逆に、同じ鼻で嗅ぐものでも「香り」となると、一気に魅惑が花ひらく。

だがこうした嗅覚にかかわる価値評価は、客観性を持ちえない。これはつねに「におい」の弱みととらえられてきた。ギリシャ人を「観る人々」と捉えたハイデガーを俟つまでもなく、プラトンのイデア説から始まる西洋哲学は、カントやヘーゲルにいたるまでつねに視覚中心主義だった。これは視覚が、対象と距離をとることなしには機能しえない、とりわけて客観的な感覚であることに由来する。あれこれの空気の振動の仕方に快不快を聞き分ける聴覚はまあよい。対象を撫ぜまわす触覚は淫らにすぎる。嗅覚や味覚なんぞにいたった日には、対象を体内にとりこむことなしには働きだしすらしないではないか。

嗅覚は脳の古層に直結している。それは言葉=ロゴスをつかさどる大脳新皮質によって一種の恥辱のように覆い隠された、動物的生の名残りだ。――小林秀雄以来の近代批評もこうしたフレームにとらわれて、「におい」をまともに論じてこなかった。柄谷行人は『日本近代文学の起源』で「内面」と「風景」と「近代日本語」が三位一体として生みだされた経緯を描きだしたが、触覚や嗅覚は「日本近代文学」の外部に放逐されてしまっている。

だが、虚心にながめわたすや、小説を中心に文学の世界には、いかに多様な「におい」が立ちこめているかに気づかざるをえない。「はじめに」でも触れられているが、紅茶に浸したマドレーヌの味と匂いから、二○世紀文学の最高傑作『失われた時を求めて』の長い回想の旅ははじまるではないか。ひるがえって、「二一世紀の現代、我々は、『におわないこと』を重視する文化のなかにいるのではないか」と問う筆者は、作品中に言葉としていったん定着された以上、もはやけっして「におわないこと」にはなしえない芳香、薫香、幽香、悪臭、異臭、性臭へと、その強靱な鼻をすすんでつっこんでゆくのである。

取りあげられる作家・作品は、漱石や谷崎や村上春樹といった大物だけでなく、ややマイナーな作家たち、さらには『変態性欲』といったキワモノまで、なんだか無節操といいたくなるほどわけへだてがない。だが嗅覚ほど無節操で、わけへだてしない感覚がほかにあろうか。そしてまた、想像力の自在な飛翔にすべてをゆだねる「なんでもアリ」な小説というシロモノほど、無節操な芸術ジャンルがほかにあろうか。ぼんやりと漂う「におい」は「感情の儚いうつろい」にあまりにも似ており、実体をもたぬ以上「虚構」としかいいようがなく、それ自体が「譬喩」ですらあると、香りのマイスターである著者に指摘されるたび、「においこそ小説の王道であったか!」と読者は目から、いや鼻からウロコが落ちる思いに誘われる。

とはいえ、私が「におい」というものの魔力に最も怖れおののき、同時に最も蠱惑されたのは、食の評論家である小泉武夫の『くさいはうまい』中の、カナディアンイヌイットの発酵食品「キビヤック」の記述である。はて、この「儚い虚構」などとは口が裂けても言えないような世にも凄まじい臭い、なんに譬えたらいいのやら?
この記事の中でご紹介した本
匂いと香りの文学誌/春陽堂書店
匂いと香りの文学誌
著 者:真銅 正宏
出版社:春陽堂書店
以下のオンライン書店でご購入できます
「匂いと香りの文学誌」出版社のホームページはこちら
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