第29回 三島由紀夫賞・山本周五郎賞、第42回 川端康成文学賞贈呈式開催。選考委員・受賞者挨拶|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2016年7月1日 / 新聞掲載日:2016年7月1日(第3146号)

第29回 三島由紀夫賞・山本周五郎賞、第42回 川端康成文学賞贈呈式開催。選考委員・受賞者挨拶

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6月24日、東京・虎ノ門のホテルオークラにて第29回三島由紀夫賞(蓮實重彥『伯爵夫人』新潮社)、第29回山本周五郎賞(湊かなえ『ユートピア』集英社)、第42回川端康成文学賞(山田詠美「生鮮てるてる坊主」群像【平成二十七年9月号】)の贈呈式が行われた。式では賞の贈呈と各選考委員代表の挨拶と受賞者の挨拶が行われた。

蓮實重彥
蓮實重彥氏
蓮實重彥氏
聴衆を前にしてマイクを握ると何を口走るか分かりませんので、あらかじめ準備しておいた文章を、しめやかに読み上げさせていただきます。

あらゆる年齢にはそれにふさわしい果実がみのるものだと述べたのは、レイモン・ラディゲRaymond Radhiguetだったと記憶しております。肝心なのは、それを摘みとることができるか否かにかかっている、と彼はつけ加えていたと思いますが、かりにこのモラリストめいた箴言を信じるなら、いま耳にしたばかりの川上弘美さんの爽やかなお言葉から、八十歳のわたくしがみのらせた果実も、しかと摘みとられたのではないかと錯覚しそうになります。しかし、わたくしは、それほどあつかましくもなければ、破廉恥な人間でもありません。みずから書いたものの限界ぐらいは、充分すぎるほど心得ているつもりだからです。そもそも、『ドルジェル伯の舞踏会』の作者ラディゲは、一世紀近くも前に二十歳で夭折しており、その四倍もの歳月を生きてしまった蓮實重彥というきなくさい日本の老人のことなど、想像すべくもない存在だったのです。

では、多少とも面識のあった老齢者の言葉に助けを求めてみるとどうなるでしょうか。例えば、晩年のロラン・バルトRoland Barthesは、年齢をかさねるにつれて、ますます自分の気に入ったことしかしなくなった、と述べております。六十四歳のバルトが「自分の気に入ったこと」しかしなくなったというのなら、八十歳のわたくしが「自分の気に入ったこと」として『伯爵夫人』を書いてしまったことも、許されて当然だといえるかも知れません。ところが、そう宣言したバルトにとっての「自分の気に入ったこと」とは、あるパーティーをひそかに抜け出すといった程度の、ごくつつましいものにすぎません。だとするなら、わたくしには、バルトより遥かに大胆に、「自分の気に入った」ことにかまける自由が保証されているのでしょうか。

晩年のバルトにとって、小説の執筆は、あくまで、構想の段階にとどまるものでした。ところが、平成日本においては後期高齢者と蔑視されているこのわたくしは、「自分の気に入ったこと」を、アンドレ・ジッドAndrr驕@Gideの定義による《une noubelle》、すなわち「中編小説」として書いてしまいました。はたして、それは大胆な振る舞いなのでしょうか。それとも、バルトのいう《l’arrogance》、すなわち「厚顔無恥」なものでしかないのでしょうか。ことによると、「厚顔無恥」でもいっこうに構わぬという開き直りのようなものが、わたくしの「気に入ったこと」だったのかも知れません。いずれにせよ、『伯爵夫人』が、大江健三郎氏のいう静穏な「晩年様式」の範疇にはとてもおさまりがつかぬものであるとだけは、自覚しているつもりです。

ここで、いささか唐突ながら、マルクスMarxとフロイトFreudの正しさに触れねばなりません。社会的な水準においても、また個人の水準においても、人は決して「自分の気に入ったこと」を貫徹できるものではないと実感するしかなかったからであります。確かに、わたくしは、「自分の気に入ったこと」として書き上げたテクストを矢野編集長にお見せし、氏のご英断によって雑誌『新潮』に発表することができました。そこまでは、「自分の気に入ったこと」のなりゆきをひたすら楽しんでおりました。しかし、その「中編小説」が三島由紀夫賞の候補となり、あろうことか受賞までしてしまった瞬間から、「自分の気に入ったこと」とは潔く訣別せねばなりませんでした。マルクス主義者でもフロイト主義者でもないわたくしは、八十歳にして、この過去の賢人たちの思考の決定的な正しさを認めざるをえない立場に自分を見いだすしかなかったのであります。

この授賞式が、「自分の気に入ったこと」でないのはいうまでもありません。それは、どこかしら「他人事」めいており、この場は「どこでもない場所」を思わせもします。しかし、あたかもそれが「自分の気に入ったこと」であるかのように振る舞う才覚は、わたくしにも多少はそなわっております。そこで、審査員の皆さまを始めとして、このテクストをわざわざお読み下さったすべての方々に、複雑な思いのこもった感謝の言葉をさしむけさせていただきます。とりわけ、雑誌『波』に書評をお寄せ下さった瀬川昌久、筒井康隆、黒田夏子(年齢順)のお三方のお言葉は、心に浸みるものがありました。ただ、教師根性からひとことつけ加えさせていただくなら、筒井さんがいかにも旧帝国ホテルにふさわしいものとして引いておられた「焦げたブラウン・ソースとバターの入りまじった匂い」という一行は、フローベールの『ボヴァリー夫人』からの正確きわまりない引用にほかなりません。かくのごとく、『伯爵夫人』は他人の言葉の断片的な引用にみちみちており、この式典がどこかしら「他人事」めいて見えるのも、そうした理由によるのかもしれません。

これから、あたりには、誰に向けたともしれぬ感謝の一語がむなしく響くことになりましょうが、それがわたくしの口から洩れたものだと証言しうる男女は、この「どこでもない場所」には、一人として存在していないはずだと信じております。ありがとうございました。
〈最後の一語は蓮實氏が口にしたのではなく、スピーカーから流れる女性の声で発せられた〉

三島由紀夫賞選考委員・川上弘美氏
私は選考の言葉が非常に短いので有名なんですが、今日はちょっと長いのと、引用がいくつかありますので書いてきたものを読ませていただきます。

小説はどのようにして書かれるのだろうということを選考のたびに考えます。小説はなんでもありなのだ、または反対になんでもありというのが小説なのだという言葉を聞きます。確かにそうなのです。それなのに選考会の俎上にあげられる、そもそも優れているという前提の小説を何篇か読んだ時に、そのなんでもありに対して自然に自分の中で優劣が決まってくる、そのことをいつも不思議に思っています。優れた小説であればあると思うほど、この小説はどのようにして書かれたのだろうという考えが強く湧いてきます。けれどその答えはいまだに分かりません。そもそも自分が小説を書く時にどのようにして書いているのかも、実はよく分かっていないのです。そんなことをつらつらと考えていた、この三島賞選考後の一ヶ月だったのですが、つい数日前まったく違う分野の本を読んではっと思ったことがありました。その本は人工知能の研究者が書いた本です。人工知能ということを研究するにあたって、まずは人間の知能というものがなんなのかをしっかり分かる必要があるという言葉が本の中にはありました。そのあとを少し引用してみます。

〈これまで心理学でも理性と感性を分けて理性のほうが知性的で感性は人間の知性を阻むものだと考えられがちでした。ところが今では好き嫌いといった感性の部分が知能の重要な部分を占めていると考えられています。人間というのは右の道に行くか左の道に行くか迷った時、五分考えたりせず直感的に好きだと思ったほうを選びます。外国のたとえ話で水飲み場が二箇所あって、その中間にロバを置いておくと馬鹿なロバはどちらが近いか分からずに悩んでいる間に餓死してしまうという話があるのですが、好き嫌いという感情さえあればこういうことは起こりません。人工知能にもそういう好き嫌いの判断が必要なのです。そもそもなぜ人間に好き嫌いがあるかというと、好き嫌いという感情を持っていたほうが生存や進化に有利だからです。いくつかの食べ物を見た際に、ぱっと見てなにか嫌な感じのするものにはやはり毒があったり腐っていたりすることがあります。嫌いという感情の中には危険を回避する能力が潜んでいるわけです。好き嫌いに似たものとしてパニックというのも重要な要素です。本来パニックというのは人間が森で猛獣や天敵と遭遇した際にパニックに陥ることで咄嗟に手足を動かして逃げるためのものです。冷静な判断のもとで時間をかけて推論していったら殺されてしまいます。しかもパニックには潜在的な能力を引き出す力がある。火事場の馬鹿力というやつです。〉

以上が引用なんですけれども、その「火事場の馬鹿力」という言葉にことに私ははっとしました。実は私はいままでずっと一行の文章を書くことに火事場の馬鹿力を発揮しているような気がしていたのです。それはもちろんささやかな馬鹿力なんですけれど、普通に楽しく誰かと喋っているときや、頭の中でゴタゴタと何かを考えている時には出来ない純粋に小説のためとなる文章をある種の火事場の馬鹿力を使って作り上げているという実感がどうもあるんですよね。先ほど引用した文章の中には潜在的な能力を引き出す力という言葉も出てきました。小説を書いていると最初は計画していなかった思ってもみなかったことが書けるという経験をしばしばします。それはけれどまったく自分の知らなかったことではないのです。かといって意識の上に確固として浮かんでいたものでもない。おそらくそれは無意識と言いましょうか、記憶の奥底にしまわれていると言いましょうか、そのようなものの総体が小説を書こうという意志のもとに、小説家の頭の中でどんな具合にか浮かび上がってきて一瞬のうちに文章化されるという感じのものです。そう、なるほど小説家はいつも小パニックに陥りながら生存の危機を回避するようにして小説を書いているのかと笑い出したいような、反対に、ああ、疲れる作業をしているんだなとがっくり来るようなちょっと不思議な感慨を覚えたことでありました。

さて、今回の三島賞受賞作『伯爵夫人』です。この作品はまさに小説でしか表せない何かを持っている小説なわけですが、その何かが一体なんなのか。私以外の選考委員の選評を少し引用してみます。

「繰り出される言葉の運動そのものに一定の快楽を覚えるのは、まさに小説の勝利というものであろう」と言うのは高村薫さん。

「言葉には意味があり働きがその奥底で別の言葉と関連している。小説家が小説を書いて小説家でないひとより大抵上手なのは、そうした言葉の意味と働きを熟知したうえでこれをもっとも有効適切に活用して人間の情緒を刺激することに長けているからである」と言うのは町田康さん。

「我々の行為は、語りという行為の中で生じる表層のゆらぎ(6字傍点)に過ぎないのかも知れない。(中略)真実などないのである。真の解がなければ、また真の謎もなく、我々は表層のゆらぎに身を任せる他ない」と言うのは辻原登さん。

「ページを捲るほどに、生臭い大きな陰嚢に包まれてくような息苦しさがあった。(中略)[この小説は]知的な意味では、読後にこそ始まる小説なのだろう」と言うのが平野啓一郎さん。

これらの賛否両論、多様な文体自体がそれぞれの小説家たちによるある種の火事場の馬鹿力を見せてくれる非常に興味深いものでありますし、反対に言えば『伯爵夫人』という作品がその馬鹿力を引き出す力のある作品だったとも言えます。

『伯爵夫人』という小説の素晴らしさは、常にパニックに身を晒しながら書き続ける、つまり常に生存の危機に類似した心理状態で書き続けるという状況から逃げずに正面から対峙し最後まで書ききった結果をきれいに見せてくれたところにあるのではないでしょうか。

緊張感から逃げずに書くということはかなり剣呑なことです。にも関わらず作者の蓮實さんは最後まで力を緩めず、かつ言葉自体には余裕とユーモアを含み持たせ、小説というものの愉楽をたっぷり味わわせてくださいました。素晴らしい受賞作だと思います。おめでとうございます。

山本周五郎賞選考委員・石田衣良氏
蓮實さんのご挨拶素晴らしかったですねえ。その前の挨拶にも時限爆弾が仕掛けてありました。文学賞ではズレと怒りが大事であると佐藤社長がおっしゃったのですが、それを聞きながら、ああこれは僕へのサインなんだなと思ってこの壇上に上がっています。いまの代の選考委員になって、山本周五郎賞は五年目を迎えます。そのうちの三回に湊かなえさんの作品が最終候補として入っていました。ですから僕達の間では、いつ湊さんに山本賞をあげるか、それが湊問題としてずっと今日の曇り空のように頭上にのしかかっていたわけですね。それで今回『ユートピア』という作品で湊さんにこの賞を差し上げられて僕自身もとても良かったなと思っています。

『ユートピア』という本は、田舎町の、まあ港町なのですが、そこに昔から住んでいる住民と、都市からやってきてそこの町の見晴らしのいい海辺のニュータウンに暮らす住人との対立を描いているんですね。はっきり申しあげてしまいますと、今の時代の、たとえば小さな憎しみ、ライフスタイルの違いによる小さな嫉妬、それから微妙な差別意識ですね。上でも下でもそれはあるんですが、それを描かせると今の湊かなえさんはたぶん日本一うまいと思います。

思い返してみますと僕は湊さんのデビューの時の選考委員でもあるのですが、それが2007年の「聖職者」という短篇だったんです。それが翌年長篇に引きのばされて『告白』というタイトルで大ベストセラーになるのですが、みなさんも2008年に何があったか覚えていらっしゃいますね。リーマン・ショックです。それ以降の時代の変化、その時代から僕たち人間の心の中にあるマイナスの部分、陰の部分、悪い部分をことさら意識するようになった。そういう時代にシンクロするように湊さんが現れて、イヤミスのクイーンとして今ここに立たれている。

やはり作家が大きくなるということは、その時代と相通じる価値観だったり輝き、今回は陰なんですけれど、陰を持ち合わせていないといけないと思うんですよね。奇しくも今日、イギリスがEUを離脱しました。僕はこの結果というのは、イギリスの貧しい半分が豊かな半分に嫉妬と復讐をしたせいだと思っています。ということは単純に申し上げて、次の十年も湊さんのイヤミスクイーンの地位は安泰ということです。

この挨拶を終えるにあたって湊さんにアドリブで何かぜひお話いただきたいということでお題を出すことになっています。なので、今回のお題はイギリスのEU離脱(笑)。そこから湊かなえさんには受賞の言葉を始めていただきたいと思います。湊さんおめでとう。

湊かなえ氏、山田詠美氏
㊧湊かなえ氏、山田詠美氏
湊かなえ氏
こんばんは湊かなえです。どうぞよろしくお願いします。

こういう場では原稿を見ないほうが話すことに説得力が出そうなのですが、これからお話させていただくことを、緊張して後であれを言っておけばよかったと思い出して後悔しないように新幹線の中で書いてまいりました。少し下世話なスピーチかもしれませんが、真剣に書いております。では読ませていただきます。

受賞からパーティーまでひと月あるのは、自分がこのたびどのような相手と闘ったのか振り返る期間だと思い、他の候補の方々の作品を読ませていただきました。そして私の言葉が足りないせいで、受賞エッセイを読んで不快な思いをされてしまったかもしれない方に補足させていただける場だと思い、これからお話させていただきます。

まずいちばん誤解をしてほしくないことは、私は押切さんの作品を素晴らしい作品だと思っております。女性の細やかな心理描写、それが読者に届く言葉としてわかりやすく書いている。簡単に読めるとことを書くのはとても難しい。それをそうとは気づかないように書かれているところが大変素晴らしいと思っております。しかしネットを中心とした報道では、押切さんの作品が次点だったことについて「文芸の外の人」と書いたことしか触れられていません。「なんで?」と思います。

受賞後の会見で芸能人の方が本を書かれることをどう思うか、それが文学賞の候補になることをどう思うかということを聞かれました。その時私は肩書は関係ないと思いますと答えました。たまたま芸能人の方ということで目立っただけで、医者で小説を書かれている方もいますし、弁護士で小説を書かれている方もいます。私は小説家という肩書を取ったら主婦です。はがきの投稿などでは主婦と書いています。肩書などはどうでもいいと思います。エンタメ小説は面白いかどうか。それで充分だと思います。

しかしこのたび、決して悪口ではありませんが、主催者、選考結果の発表、報道、すべてが押切さんをモデルとして最後まで扱っていたのではないかと思います。その結果今年の山本賞は第二の又吉さんを作ろうとしたけれど失敗してしまった。もうなんかパーティーが終わったらなかったことにしたいみたいな微妙な空気が流れてしまったように思います。私はたくさんの方に「おめでとうございます」と言ってもらいましたが、みなさん何か言葉を隠すように、何か変な笑いを浮かべたまま言われて、皆さん本当はそう思っているけど、心のなかでは今回のはどうだかなみたいな感じで思われているんだなというのがすごく悔しかったです。

そして押切さんがそうやってモデルとして扱われるということは、じゃあ私を含めて他の候補者はスターを作るために集められた駒のような扱いになっている。そういう意味で「なんだそりゃ」と思ったことをエッセイに書かせていただきました。しかし押切さんの作品は読んだ人に力を与えてくれます。何よりも私はここ数年本当にしんどくなって、おもに担当編集者の方々にやめたいとばかり繰り返していました。しかし押切さんの小説を読んでもう少し頑張ってみるぞという力をいただくことが出来ました。そこがきちんと世間の人に、最初から内容の素晴らしさが伝わっていれば、今回の山本賞はみんなが幸せな会になっていた。いや、これからでも幸せな会になるのではないかと思います。

他の候補作の方、相場英雄さんは多くの人が目を背けたい問題に真正面から向き合われた骨太な作品を書かれています。中田永一さんは誰にも真似できない中田遊園地を創られています。その中でも遊園地の中にいろいろな種類の違う個性の強いアトラクションが用意されています。宮内悠介さんは天才です。天才の本を読みながら天才の頭の中を除くことが出来るという特殊体験は、誰の作品でも出来るものではないと思います。今回の候補者の方々はこういった作品を書かれていました。第二十九回山本周五郎賞は傑作揃いです。そんな中で受賞できたことを心より嬉しく思います。ありがとうございました。

そして報道の皆さん、しょうもないことばかりを大げさに取りあげて注目は集めたとしても、それは本を読まない人たちが本を手に取るきっかけにはなりませんし、むしろ本好きの人を呆れさせるだけです。もっと素晴らしい本がこのたびの候補に上がったんだということを、ちゃんと本の内容を多くの人に紹介してください。私は文学賞はお祭りだと思っています。お祭りは楽しむものです。誉めあうものです。みんながその会場に行ってみたいと思うものじゃないんでしょうか。これからもお力添えください。まずは今回の作品がとても面白かったということを多くの人に知らせてください。このたびはありがとうございました。

そして、タイムマシンがあったら馬鹿なことは言うなと半時間前の自分に言いたいのですが、石田さんにお題を出してくださいと言ったイギリスの件ですが(笑)、イギリスのことは日本が島国だからといって他人事ではないと思います。昨日も銀行の方に外貨積立を勧められて(笑)、日本の経済はこの先不安定なので外貨で財産を残すことをおすすめしますと言われたのですが、ちょうどイギリスの問題もあったり、世界のどこを見回しても幸せでハッピーと言っている国を私は見つけることが出来ません。どこも同じ問題を抱えていると思います。そんな中でいかに遠くの国で起こっていることを自分のこととして考えられるか、そこが未来に繋がるのではないかと思っております。そういうアンテナをしっかりと磨いていきたいと思います。面白くない答えですがこれでお許しください。ありがとうございました。

川端康成文学賞賞選考委員・辻原登氏
山田詠美さんの「生鮮てるてる坊主」という作品は、孝一と虹子という一組の夫婦と、語り手の私、奈美という名前ですが、三人の物語です。孝一と私は大学に入学して知り合って以来、十数年に渡って素晴らしい友情関係を作り上げてきている。孝一は虹子と結婚している。とにかく友情という言葉を語り手で主人公である奈美は最も大切にしている。十数年友情を磨きあって人間の最も崇高な感情として堅持してきている。虹子という妻は非常に神経が繊細で弱いと奈美は語ります。扱いにくい厄介な生きもののような女の子というふうな言い方をします。ところが虹子は夫と奈美が言う友情というものを信じていません。つまりごく普通の考えからいけば、十数年も固い友情で結ばれる男女などというものは信じられない。だからこういうふうに言います。「終わった後に友情を残せるような男と女の付き合いは本当に素晴しい」と。おそらく嫌味たっぷりに言うわけです。ところがある日虹子が非常に興奮して夫と奈美との友情という関係を、最も危険ないかがわしい質の悪い感情だということを暴露するというか暴く場面があります。この場面はこの短編小説のなかのクライマックスなんですけど、その友情のいかがわしさ、質の悪さを暴かれた奈美が友情で結ばれている孝一と初めてベッドを共にするんです。ここではセックスを徹底的に楽しむわけです。ということは、妻の虹子が予言したというか言った、終わった後で友情が残るような男と女の関係は本当に素晴らしいというこの言葉が反転したかたちで実現するわけです。その直後、この濃厚な孝一と奈美のセックスの結果として、なんと虹子が妊娠するんです。ここは山田さんは実に上手くさっと書いている。つまり友情のもとに付き合ってきた二人が、友情の質の悪さを暴かれて濃厚なセックスをして、そのセックスの結果妊娠するのは妻の虹子の方である。つまり終わった後に友情が残るような男と女の関係は素晴らしいというのを二人は実質的に反転させて実現するわけです。もうひとつは孝一と奈美とのセックスの結果、虹子のほうが妊娠する。これはありえないといえばありえないんですが、ここでも反転あるいは転移しているわけです。この小説の面白さはそういう反転と転移の面白さで、それがついにラストになって最も大きな反転が起きます。これは読み終わってから分かることなんですね。読み終わったあと果たして虹子は本当に気が狂っているのか、精神に異常を来たしているだろうかという問いを発した途端に、この小説が奈美という「私」のレンズを通して語られた世界であることを知るわけです。するとこの小説はまた反転します。つまりこういうふうに山田さんの「生鮮てるてる坊主」は、まるでエッシャーの絵のように読む者に眩暈をもたらす小説です。巧緻を尽くした人間の心理に対する深い洞察を秘めた見事な珠玉という名にふさわしい短編だと思います。山田さんおめでとうございます。

山田詠美氏
世の中には言わぬが花という言葉がありまして、それは洗練の作法のひとつであるんですけれども、もうひとつ小説家の中には書かぬが花という言葉があります。私もそのことを重要視してきて、長いこと書きたい言葉よりも書きたくない言葉のほうを大切にしてきました。だけどいい加減キャリアも重ねてきて歳もとってきたので、今度はちょっと冒険をして、書かぬが花ではなくあえて書いて花を散らすみたいな、そういうような小説を目指したいなと思っています。やがてこのおばあさん、この歳でこんなに野蛮なことを書いているんだって思われるようになりたいです。目指すのは、私が最年長のパンクスと呼んでいるジャッキーこと瀬戸内寂聴先生です。そういうふうに精進していけたらいいなとは思っていますが、どうなることかはまだ分かりません。ずっと修行の身です。

ずいぶん昔なんですけど、敬愛する田辺聖子さんに、キャリアも重ねてきて腕も上がってきた。だけどどうしても書きあぐねてしまって深みにはまってしまうような時になったらどういうふうに進んで行ったらいいんでしょう。どうやってライターズ・ブロックを越えて行ったらいいんでしょうと尋ねた時がありました。そうしたら田辺先生は、私は昔うんと褒めてくれた人の書評や批評を取り出して、この人にこんなに褒められた私だから絶対この先も書ける、そういうふうに思っていい気になってまたうぬぼれるのよとおっしゃいました。私もこの先書きあぐねて深みにはまってしまうことがあると思います。そういう時には今回川端賞をいただいたことで選考委員の方々が書いて下さった選評を何度も何度も読み返すことになると思います。本当にありがとうございました。

この授賞式にうかがったのは、前に山本賞の選考委員をやっていた時ぐらいで、十三年ぶりぐらいになると思うんですけど、この際なので蓮實先生の分まではしゃいで帰ろうと思います(笑)。どうもありがとうございました。
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