ルソーと方法 書評|淵田 仁(法政大学出版局)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年12月7日 / 新聞掲載日:2019年12月6日(第3318号)

ルソーと方法 書評
存在論的ルソー像に向けて
濃密な構成と博学な叙述の力作

ルソーと方法
著 者:淵田 仁
出版社:法政大学出版局
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 若く優れた研究者たちの登場で、日本のルソー研究は面目を一新しつつある。淵田仁『ルソーと方法』は、その成果の一つだ。この哲学的思想史的力作にどうアプローチするか?例えば、湖畔の古い邸宅に住むことになったあなたは、ある日、屋根裏で膨大な手紙の束を発見する。その編集を思い立つとして、さてあなたはどうするか。束は順番になっている可能性もあるから、元の順序を尊重しつつ束を解き、一つ一つ手紙を丁寧に読むしかない。束は分解されるが、同時に、手紙相互のやりとりの脈絡が少しずつ姿を現す。各断片(この場合は手紙)が系列をなし、新しい結ぼれが生じるのだ。おおよそこれが、18世紀フランスの哲学者コンディヤックが「分析的」(原義は「結ぼれを解く」)と名づけた方法で、物質から観念までを網羅する存在論モデルである。

『ルソーの方法』は、この感覚論型存在論(コンディヤックの方法)を丁寧に読解することから始まる。「方法」を叙述する部分は、記号論の始祖の一人パースにならえば、「純粋文法学」にあたるだろう(序論、第1章)。さて、この方法に哲学的な問題があることを見抜いたのが、他ならぬジャン=ジャック・ルソーである。分解から系列が生じるのは、手紙の編集など経験を通じて納得できるにせよ、断片相互を繋ぐものは何か。感覚の根拠は感覚できない以上、脈絡の起源も自明ではあり得ない。これがルソーの存在論的な問いである。ここで超越性に赴かないのがルソー思想の魅力であるから、ブュフォンの「内的感覚」を換骨奪胎して、あくまで内在的に各断片の絆が探求される。現代風には「痕跡」や「解釈項」の介在だから、これもパース風に「純粋論理学」と呼べるだろう(第2・3章)。ここで全てのピースは、内在平面でうごめく。超越性なき「ゲーム」なのだ。言語の起源以降、全ては自然からズレてしまっており、「最初の嘘」は取り消しようがない。無垢潔白な論理も「言語ゲーム」の領野に降り、堕落し、疎外されて嘘となる他ない。その系譜と生成を語るのが、いうまでもなく歴史である。「歴史」それ自体も「言語ゲーム」に他ならないから、これは「純粋修辞学」の領域となる(第4・5章)。これら三領域は最終的にどこに収斂するのか。ルソー自身だ。真理を語ると想定される主体の生成、すなわち自伝『告白』(『対話』ではなく)が着地点となる。すべてを見て語る作者は分析を超えるが、著者の断片を分析的かつ綜合的に読む読者が要請される。そのような読者においてのみ作者の真実(という想定)は生成するからだ(第6章)。

淵田仁『ルソーの方法』の構成は濃密であり、思想史に不慣れな読者はその博学な叙述に圧倒されるかもしれない。しかし、そこに込められたルソー読解への情熱と現代思想から科学論に及ぶ瞠目すべき学識は、爽快な読後感をもたらすだろう。ところで「結論」では、「普遍」と「一般」の区別(ルソー政治思想の核心)について、B・ベルナルディに典型的な化学(分析)モデル=存在論の囚われから離脱する、新たなルソー読解さえ暗示されている。言説による安寧を打破する真理への勇気、ないしは数千年の偽りを粉砕して、この地上に深遠な抗争をもたらす運命(ニーチェ)に、ルソーがどこまで絡むか定かではないが、もし、淵田氏に戦争論ないし、われわれを相変わらず規制しているホッブズの世界観への批判を期待するとしたら、余計なお節介だろうか。繰り返すが、力作である。
この記事の中でご紹介した本
ルソーと方法/法政大学出版局
ルソーと方法
著 者:淵田 仁
出版社:法政大学出版局
「ルソーと方法」は以下からご購入できます
「ルソーと方法」出版社のホームページはこちら
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