素顔に出会うことの不可能性についての物語 ジョー・バリンジャー『テッド・バンディ』|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年12月9日 / 新聞掲載日:2019年12月6日(第3318号)

素顔に出会うことの不可能性についての物語
ジョー・バリンジャー『テッド・バンディ』

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12月20日(金)より、TOHOシネマズ シャンテ他、全国ロードショー ©2018 Wicked Nevada,LLC
一九七〇年代に三〇人以上の女性を殺した連続殺人犯テッド・バンディの物語を語るにあたり、監督は主人公の凶悪な強姦や殺人の行為をほぼ描かなかった。巷に溢れる暴力描写を映画から排除し、テッドとリズの愛を物語の中心に据えた。これが、ジョー・バリンジャーの『テッド・バンディ』が優れた作品となった第一の理由だ。リズにとってテッドは理想の男性で、彼の犯罪に全く気づいていなかった。彼の逮捕に混乱し、愛情と疑念の葛藤に苦しんだ。フィッシャー刑事が、テッドについて彼女に、「彼を知らないのは君のほうだ」と言う。女は男のすぐそばにいながら演技に騙され、事実をなかなか認識できない。これは連続殺人の映画でも犯罪捜査の映画でもない。演技と認識についての映画なのだ。

第二の理由はテッドに扮するザック・エフロンの素晴らしい演技だ。魅力に溢れるその瞳、その口元。癖のように唇を噛む時の表情が特にいい。何か感情を押し殺し抑制しているようで、テッドの謎めいた魅力が倍加する。感情の的確な制御に基づく不敵な自信が、裏表のある瞳や口元に漂い、彼をますます怪しく輝かせる。犬がテッドに吠える時、その犬は男の凶悪さを見抜いたのかもしれないが、リズも他の女たちの多くも彼の怪しい魅力にとりつかれている。吠える犬をまっすぐ見つめる時も、テッドは唇を噛みしめている。

ザック・エフロンは演技をする男を演じる。テッドはリズの前で魅力的な男を演じ、裁判では、法廷が芝居の舞台であるかのように無実の男を饒舌に演じる。裁判がテレビで生中継されると演劇性はさらに増す。だが、演技とはそもそも何だろう。劇映画では、観客は登場人物の物語を見ると同時に、俳優のドキュメンタリーも見ている。ただし、そこで区別されるのは演技の仮面と素顔ではない。ドキュメンタリーとして提示されるのも、素とは異なるカメラの前での俳優のイメージである。観客はスクリーン上にテッド・バンディとザック・エフロンを同時に認めるが、ここで認識される後者もスターという作られたイメージにすぎないのだ。つまり、演技とはイメージを二重化するもの、仮面と素顔ではなく、二つの仮面へ二重化するものなのだ。素顔に出会わない以上、この二重化はどこまでも繰り返される。ザック・エフロンのイメージはスターとしてのイメージと素の姿と思い込まれる別のイメージに二重化される。テッドもまた、連続殺人犯としての彼と女の前での魅力的な彼に二重化される。キャロルがテッドとの性行為の際に彼の演技を見抜くように、リズと初めて一夜をともにした後のテッドの理想的な振舞いも演技である。他の女を強姦して殺す時に彼が素顔を見せると何故言えるのか。人は一人の時でさえ、自分に対して演技をしているのだ。フィッシャー刑事が自分はリズよりもテッドのことをよく知っていると主張するのは奇妙である。テッドには二面性があって、この刑事はその一面を知り、リズは別の一面を知っているだけだ。認識されるものは全て演技の産物で、素顔など、その人本人も見られないのだ。『テッド・バンディ』が語るのは、女が愛する男の素顔に出会うまでの長い道のりの物語ではない。演技しか認識できないことについて、素顔に出会うことの不可能性についての物語である。

今月は他に、『犯す女 愚者の群れ』『人生、ただいま修行中』などが面白かった。また未公開だが、セルゲイ・ロズニツァの『やさしい女』も良かった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)
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