ゾンビの小哲学 ホラーを通していかに思考するか 書評|マキシム・クロンブ(人文書院)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年12月14日 / 新聞掲載日:2019年12月13日(第3319号)

ゾンビの小哲学 ホラーを通していかに思考するか 書評
自己嫌悪に陥った人間学
「分身/怪物/アポカリプス」の三つの側面から描き出す

ゾンビの小哲学 ホラーを通していかに思考するか
著 者:マキシム・クロンブ
翻訳者:武田 宙也、福田 安佐子
出版社:人文書院
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 一般的に言ってホラーとは、それを見ている観客に恐怖の感情を引き起こすべく作られた映画の(より広くは物語一般の)ジャンルのことである。「あれは実質ホラーだ」「いや違う」といった日常的になされる発話の背後にそのような信念が控えていることは、少しの分析で容易に見てとれる。ノエル・キャロルもその著書『ホラーの哲学』で強調しているように、ジャンルとしてのホラーはそこに登場する表象の種類によってではなく、それが引き起こすとされる感情(情動)の種類によってこそ定義される。ゆえにゾンビという表象のクラスについて考えることは、ホラーという情動のジャンルについて考えることを必ずしも意味しない。実際、ゾンビが登場するが「怖くない」フィクション作品の例はいくらでも挙げられる。そのような脱ホラー化した古い表象が自己言及的に取り込まれることで、新たなホラー的表象が生み出されることが、真のホラーにおいては珍しくないとしても、である(たとえば臆病な振る舞いをした登場人物が他の登場人物から「ホラー映画の見すぎだ」と言って笑われる、ホラー映画の導入部に典型的なシーンを想像してみよ)。

要するにゾンビの哲学がつねにホラーの哲学であるとは限らないのだ。本書『ゾンビの小哲学』を手に取る読者は、そのことをまず肝に銘じておかねばならない。実際、この『ゾンビの小哲学』は題名が約束するとおりゾンビ論の書ではあるもののホラー論の書ではない。著者クロンブが本書において意図したのは、彼自身の言葉を借りるなら、ゾンビを「われわれ西洋社会を眺めるためのガイドとすること」、すなわち私たち自身の文化や社会が抱える諸問題の「現像液」としてその「イメージ」を活用することである(一三頁)。クロンブによれば「ゾンビはさまざまな懸念の形象」であり、「われわれがおそれるものを、口を閉ざしたがるものを表象している」(一七頁)。さらに「文化の対象として、またメタファーという間接的な仕方によって、ゾンビはわれわれに、われわれの不安と恐怖を見せる」(二〇〜二一頁)。ここではゾンビの形象は、私たちに恐怖を呼び起こす何かというより、私たちがすでに抱いている漠然とした不安(それが恐怖にまで至る場合もある)を反映するものとして、そしてほとんどそういうものとしてのみ取り扱われている。議論の目標設定がそのようなものである以上、たとえ副題に「ホラーを通していかに思考するか」と書かれていようとも、本書はホラー論として読まれるべきではない。

構成を一瞥しておこう。クロンブは本書でゾンビのイメージを大まかに三つの側面から描き出している。第二章から第四章のタイトルにもなっている「分身」「怪物」「アポカリプス」がそれだ。ゾンビのもつこれらの側面は、それぞれ「不気味なもの」(フロイト)「アブジェクト」(クリステヴァ)「崇高」(カント)といった哲学的概念に関連づけて論じられる。序論の後に続く「モチーフ」と題された章では、ハイチでのゾンビの呪術的かつ神話的な起源から、一九六〇年代のゾンビ映画の登場、そして現在の伝染病としてのゾンビという三つの歴史的エポックが提示される。そしてこの手短なゾンビ史概説に捧げられた第一章の末尾では、クロンブ自身の方法論がディディ=ユベルマンとヴァールブルクの「イメージ」と「徴候」の概念に依拠していることが述べられる。「徴候」は不安の反映とその多義化の言い換えであると言ってよい。ちなみに第三章では前述のキャロルの『ホラーの哲学』からも引用がなされ、「亡霊とゾンビ」の性格の違いが論じられるなど、本書のなかでは比較的正面から「ホラー」が論じられていると言えるかもしれない。

ホラー論の不足は本書の欠点ではない。だが本書において、しばしば明らかに、ゾンビが登場する諸作品を具体的に分析することよりも「現代思想」のテクストからの一般的な引用を連ねることが優先されているように見えるのは問題である。たとえば第二章で「経験の貧困」(ベンヤミン)や「ホモ・サケル」(アガンベン)といった概念を召喚しながらも、結局「現代の人間の動物化した生にはある種のゾンビ性が見てとれる(=ゾンビは人間の「分身」であるという当初のテーゼの確認)」という話にしかなっていないことの肩透かし感は半端ではない。時折鋭い洞察も示されるものの、第二章と第三章は評者からすれば冗長な印象が強く、第四章「アポカリプス」(「崇高」)にクロンブのゾンビ論の本領が発揮されていると言いたくなる。そこではクロンブは、私たちの社会が抱く不安や恐怖の屈折したイメージとしてのゾンビを、迂回することなくただちに論じるからである。

別の言い方をすれば、本書全体を通じ、クロンブはゾンビという多義的なイメージと私たちの不安定な存在とを相関的に──あるいはカンタン・メイヤスー風に言えば、相関主義的に──リンクさせることで、事実上の人間学を語っているのである。本書の前半部でもすでに人間的主体性に対する「懐疑」(八二頁)が口にされているが、後半部では、環境危機や経済危機に代表される現実の「アポカリプス」的状況や(一三三頁以降)そこに取り憑いた「悲観主義」(一四一頁)などが語られており、クロンブのゾンビ解釈がもつ一種の否定的人間学の傾向は隠しきれないものとなっている。ゾンビとは「西洋のある種の疲労の怪物」(三八頁)なのだという洞察もこの点で興味深い。クロンブは、ゾンビ映画で人間たちがしばしば自分たちの利己主義や偏狭さゆえに誤った選択をし、自滅していくと述べている(三八〜三九頁参照)。同様の観点から、ゾンビは「人間にとっての他なる未来を夢見ることに対する私たちの無能力の徴候」(一一四頁)と見なされもするだろう。

自己嫌悪に陥った人間学の企て、というような言葉が究極的には、本書を形容するものとしてふさわしいように評者には感じられる。第四章の最終段落において、フロイトの論文「快原理の彼岸」を引きながら「ゾンビ映画はわれわれを楽しませ、安心させる。そこにはもはや、罪悪感も恐怖もない」(一五〇頁)という言葉を書きつけるクロンブが発見するのは、人間とゾンビとの馴れ合い、その「薄ら笑いを浮かべ」(同上)た共犯関係である。もちろんクロンブ自身は、ゾンビ映画とその観客とがこのような共犯関係のなかでまどろみ続けることを全面的に肯定してはいない(一五六頁参照)。だがそれは、悲観主義的相関主義の行き着く先のひとつであるには違いない。人間がゾンビを撃ち殺そうと、ゾンビが人間を食い殺そうと、結局は人間が人間に復讐しているだけという、白けた安心感の圏域ができあがる。この「薄ら笑い」はゾンビそのものと同じかそれ以上に、私たちをぞっとさせるだろう(たとえば加速主義者を自称する白人至上主義者の銃乱射犯が抱いていたであろう世界観と、このゾンビ・アポカリプス的な世界観とを比較してみた場合を想像せよ)。だが真のホラーは、そのような人間学的「薄ら笑い」をさえ許さない、ある絶対的に非人間的な対象への予期ならざる予期に憑かれているはずである。この絶対的異邦性への開けは、もはや怪物の表象からさえはみ出した、表象の怪物を要求するかもしれない。だとすればそれは、本書で「疲労の怪物」と名指されたあのゾンビの形象とも、似ていないとは限らないのである。そのような類似の(あるいは擬態の)可能性、不確実性は、クロンブも本書で論じていたように、私たちをひどく落ち着かなくさせるホラーに固有の「力」なのである。
この記事の中でご紹介した本
ゾンビの小哲学 ホラーを通していかに思考するか/人文書院
ゾンビの小哲学 ホラーを通していかに思考するか
著 者:マキシム・クロンブ
翻訳者:武田 宙也、福田 安佐子
出版社:人文書院
以下のオンライン書店でご購入できます
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