宮台真司・苅部直・渡辺靖 鼎談 民主主義復活へのロードマップとは リベラルな国際秩序の危機の根源にあるもの|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年12月20日 / 新聞掲載日:2019年12月20日(第3320号)

宮台真司・苅部直・渡辺靖 鼎談
民主主義復活へのロードマップとは
リベラルな国際秩序の危機の根源にあるもの

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年末恒例の「回顧特集号」をお送りします。学術・思想・政治・文学・歴史・芸術・ノンフィクションなど、ジャンルごとに一年を振り返ります。1・2面では、宮台真司・苅部直・渡辺靖の三氏に鼎談をお願いしました。    (編集部)
第1回
〝リベラル疲れ〟

3宮台 真司氏
苅部 
 改めて振り返ってみると、今年も色々なことがありました。天皇の代替わりが五月にあり、七月には京都アニメーションの放火事件。また消費税が一〇パーセントに上がり、国外に目を移せば、香港における民主派デモの展開も大きな話題となりました。しかし年末に来たのはそうした大事件とは次元の異なる、「桜を見る会」のスキャンダルで、何となくだらしのない、一年のしめくくりになろうとしています。
宮台 
 古典的な図式で議論できる初歩的な問題が噴出した一年でした。即位礼や祝賀パレードで天皇について語る機会があったし、桜を見る会で「公とは何か」という問題について語る機会もありました。他方、去年までは真面目にできた憲法論は、それを語ること自体が徒労感を伴うものになりました。それを含め、人文社会領域において高度な次元で物事を論じることが何やら場違いになりました。そんな状況だからこそ、基本的な議論の意味を深めないとダメだと思っています。憲法については奥平康弘さんとの共著『憲法対論』(平凡社新書・二〇〇二年)で話し合ったのを覚えています。新憲法ができた時、日本人がどんな感情的状態だったのか。憲法意志にまでは高められなかったとはいえ、先祖の憲法感情を思い出すべきではないかと。国民の憲法理解が時代的に変わっても、かつて事実として存在した憲法感情は、参照点として不変です。

専門に引きつければ、僕は郊外化の歴史を研究してきました。戦後の日本人がどんな過程で縁を失ったのか。柳田国男がいうように日本には血縁社会がないので、地縁がなくなると問題が生じる。地縁であれ血縁であれ、埋め込まれて育まれたがゆえにそこにリターンを返そうと自然に思うようなホームベースがないと、個人は利他性や貢献性を失って自己中心的になり、個人が家族や地域を形成しても家族や地域の体をなさなくなります。そうした経緯を「二段階の郊外化論」──一九六〇年代の団地化=地域空洞化と一九八〇年代のコンビニ化=家族空洞化──として語ったのが二五年前。それを今いろんな所で再び書いています。そこまで戻らなきゃいけないのかというのが正直な気分です。
渡辺 
 元気がないというのは、これまで堂々と語っていた民主主義や平等、人権といった言葉自体がなんとなく建前にしか見えなくなってしまったことと関係しているのかもしれませんね。その結果、我々人文界隈で生きる研究者も含めて、社会全体がリベラル疲れみたいな症状に陥ってしまっている。この手の話は、これまでに何度も三人で話してきたことでもありますよね。今年出た本を見ても、そうした気分をベースにした本が多かった気がします。私たちの毎年の鼎談をまとめた本(『民主主義は不可能なのか?』〔読書人〕)の注を付けてくれた、綿野恵太さんの『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)も、リベラルが持つポリティカル・コレクトネスそれ自体に自省を促すような優れた評論集です。トム・ニコルズの『専門知は、もういらないのか』(みすず書房)にしても、この流れに位置づけられる一冊です。事実あるいは専門家の見解よりも、とにかく面白ければいいと、情動的なものが重視される。それは大学でもテレビの情報番組でも大差はない。大学すらも、学生獲得のために迎合している部分があるというわけです。そのことを、ニコルズはシニカルに書いている。こうした流れが、決定的だと思わされたのが、木澤佐登志さんの『ニック・ランドと新反動主義』(星海社新書)です。
宮台 
 精読しました。
渡辺 
 新反動主義、いわゆる「暗黒啓蒙」といわれているものは、まさにリベラルがこれまで所与としてきた世界と正反対のことを堂々と述べている。そして、自分たちの主義主張を実現するためには、今ある資本主義のプロセスや技術革新を止めるのではなく、むしろもっと加速させて、徹底的に現状の世界を破壊する、あるいは脱出してしまえばいいという。発想としては面白いと思いますが、こうやって一年を見ていくと、民主的な制度や規範そのものに対して、シニカルな目で見る論調がいよいよ強くなった気がしますね。これは、トランプ大統領の誕生からブレクジットといった現象にはじまり、ずっと続いている状況のように思えます。それ故、私たちを前向きな気分に鼓舞してくれる人文書が、仮に出版されていたとしても、ほとんど注目されなかったのではないか。
苅部 
 二〇一八年の末に、ダグラス・マレーの『西洋の自死』(東洋経済新報社)が刊行されています。原題は「The Strange Death of Europe」ですから、むしろ「ヨーロッパの変死」でしょうね。九〇年代以降のヨーロッパにおける多文化主義政策の行き詰まりについて論じている。そこで指摘されているのは、いわゆるリベラル派の自己崩壊です。彼らは多文化主義を唱え、移民や難民の受けいれを積極的に進めましたが、ムスリムが多くを占める移民たちは、自由や人権の価値をまったく共有しませんから、国内を混乱させ、対立を先鋭化させてしまう結果に陥った。しかも、主導した政治家は責任を取らずに政権交代してしまう。そうしたヨーロッパの状況を赤裸々に指摘した衝撃的な本で、その主張はやはりシニカルです。

日本の場合は、外国人労働者の受けいれを拡大したとは言え、そもそも多文化主義と呼べるような政策を実施していませんから、皮肉なことにリベラル派が弱いおかげで、ヨーロッパのような混乱を免れている。しかし閉塞感はかなり強いですね。その点では、日本政治の現状について語った中北浩爾さんの『自公政権とは何か』(ちくま新書)が参考になります。自民党と公明党の連立政権は、相対的には基盤のしっかりした政権を長年にわたって維持していると言えるでしょう。選挙の現場で、両者の下部組織が入り組んで協力体制を築いているから、常に一定の得票数を確保できている。

しかし、国政選挙で比例代表区での自公の得票数はどんどん下がっている。それぞれに組織が弱くなって、足元が崩れはじめているんですね。他方それに対して、野党が結束を固めて政権獲得をねらえる態勢を整えているかと言えば、そんな気配はまったくない。いまの選挙制度を前提とする以上は、少なくとも選挙のときだけでも野党が大幅に結束しなければ、政権をとれないはずですが、その可能性は今のところ見えないという、灰色の展望で終わっています。そのあたりの展望が見えないので、宮台さんのおっしゃるように、憲法論議や政治改革の議論がすっかり下火になってしまった。「桜を見る会」の名簿をシュレッダーにかけてしまったとか、公文書の保存・公開とか、それ自体は大事ではありますが、どこかちまちました問題に関する議論しかできなくなっている印象があります。
宮台 
 アメリカ社会の両極分解(ポラリゼーション)の話と同じで、日本でも極が分かれていると見えて、そこにあるのはイデオロギー対立ではなく、共有財としてのプラットフォームの崩壊です。ネット上の議論を見ると、相変わらず「与党対野党」の党派争いに問題を回収したがる人が溢れます。むろん制度としては、与党も野党もあり、それを前提にした選挙制度もある。でもプラットフォーム崩壊の理由を考えれば、制度疲労ではなく感情的劣化が問題なのは明らかです。見るべきなのは制度の問題ならぬ感情的能力の問題だ、と僕は東日本大震災直後から繰り返しています。シュレッダー問題を含めて日本の官僚が出鱈目なのは、感情的劣化が進んだからです。感情が劣化した状態を放置してまともな政策論争を試みても、頓挫するのが必定。それが無力感の根源にあります。

渡辺さんが言及された新反動主義や加速主義の問題には僕も注目しています。これはGAFA(グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップル)あるいはネットフリックスを加えたFANGA問題に通じます。プラットフォーマーはペイパル創業者ピーター・ティールの影響を受けています。ピーター・ティールはニック・ランドの影響を受け、ニック・ランドはジル・ドゥルーズの影響を受けています。ティールの発想は、僕らが話してきたことに似ます。人々の感情的劣化はどのみち避けられない。だから民主主義を前提にした「制度による社会変革」は無理。であれば「技術による社会変革」を狙うべきだ。それには、新たなプラットフォームで新市場を創出、かつて忌避された市場の完全独占を目指すべきだと。既に現実化しています。プラットフォーマーは、完全独占に成功したからこそプラットフォーマーなのです。ただし、そこで重要なのは「いい社会」に近づいていないことです。
プラットフォーマーが何を変えたか。確かに技術による人々の負担免除はありました。しかしブレグジットやトランプ当選をもたらしたケンブリッジ・アナリティカが象徴するように、社会は誰によっても制御できない様相を呈しつつあります。技術的プラットフォームが新たなコミュニケーションの地平を切り開くどころか、プラットフォーム上で自動機械になり下がった人々が感情の押しボタンを押し合う、資源を大量動員した闘争になっています。

なぜ、そうした見込み違いが生じるのか。ニック・ランドの暗黒啓蒙を精査すると、根本的な誤りがあるのがわかります。僕の考えでは、暗黒啓蒙は三つの思考の合成です。第一は、二〇世紀半ばのヘルベルト・マルクーゼのカオスモス論(渾沌こそ美しい!)。僕は彼の思考を具現化したJ・G・バラードの後期SF小説を通じてその影響を受けました。第二は、戦間期ヨーロッパマルクス主義の中のとりわけローザ・ルクセンブルクの思考。資本主義的営みの頂点でのみ革命が成功するから、資本主義を徹底的に加速せよ。マルクスに元々含まれる加速主義的側面を肥大させたものですが、僕はブントの総帥でもあった廣松涉氏を通じて影響を受けました。第三は、同時期のアントニオ・グラムシの文化革命論。僕は廣松氏の盟友だった活動家で映画批評家の松田政男氏を通じて影響を受けました。暗黒啓蒙はこの三つが柱なのに、彼らのステイトメンツには三者の名前が出てこない。黙っているのか、単に教養がないのか。現実の展開を見る限り後者でしょう。僕の世代は年長者から直接学んで議論してきたので三者の議論の問題点に通暁しますが、暗黒啓蒙では問題点が放置された状態です。

加えると、統治コストを下げるためにドラッグとゲーミフィケーション(拡張現実と仮想現実)を使えという新反動主義者のアイディアも、一九六〇年代後半にSF作家のスタニスワフ・レムが『泰平ヨンの未来学会議』で示したもの。小説にはそうした統治戦略のどこに問題があるのかも書かれていますが、新反動主義者が参照した気配がありません。二〇年前にハーバーマスが示した議論も重要です。人間的でなくなった人間と、人間よりも人間的になったAIや改造哺乳類と、我々はどちらを仲間にしたいか。後者に決まっている。でも人間とAIや改造哺乳類では生活形式が全く異なり、どんな共同身体性や共通感覚を期待できるのか、実は全く自明ではないと。

「技術による社会変革」が孕む既に洗い出された問題点を放置したままでは「制度による社会変革」を「技術による社会変革」で置き換えられません。敢えてやればカオスです。むろん「それこそが美しい」というマルクーゼを参照してもよいが、大抵の人にはそうした覚悟がない。だから、ここまで滅茶苦茶になっても「ほら言った通りだろ」という気にもなれず、それで元気が出ないのもあります。
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