寺山修司×松永伍一 対談 土着と家系と聖性と 『週刊読書人』1975(昭和50)年3月31日号 1~2面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

  1. 読書人トップ
  2. 特集
  3. 読書人アーカイブス
  4. 学問・人文
  5. 寺山修司×松永伍一 対談 土着と家系と聖性と 『週刊読書人』1975(昭和50)年3月31日号 1~2面掲載
読書人アーカイブス
更新日:2019年12月22日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第1073号)

寺山修司×松永伍一
対談 土着と家系と聖性と
『週刊読書人』1975(昭和50)年3月31日号 1~2面掲載

このエントリーをはてなブックマークに追加
1975(昭和50)年
3月31日号1面より
 松永伍一氏は九州の福岡県の生まれ、寺山修司氏は東北の青森県出身。このお二人、相反するようでそうではない。土着をもとめて、あるいはユートピアをもとめて、さまざまな仕事をそれぞれにしてきた。そこでお二人に「土着と家系と聖性と」と題して対談をしてもらった。なにしろ、このお二人の顔合わせは対談では初めてのことで話がはずんだ。(編集部)
第1回
東北は「逆ユートピア」――日の当っている遠景に対する願望

松永
 あなたを最初に訪ねたのは十二、三年前で、あなたが杉並の久我山かどこかにいたときでね、そのとき「松永さんは、どうしても九州の人間とおもえない」と言ったのをおぼえている。よく、ぼくは東北的題材で書いている人に言われたりするけれど、実は『日本の子守唄』を書くころから、東北へ突き刺さっていく視線が出ていたとおもう。東北の闇は、ぼくにとっては「逆ユートピア」みたいなものとして、潜在的にあったわけですよ。九州にいて百姓をしていたときからね。東北に行ってみたいという願望はひどく強かった。同時に、平野に生きているから、平地的空間の単調さにあきたらなくて、山中に迷い込んで別個の人生を送ってみたいとか、行方不明になってみたいという、子宮願望みたいなものもあった。柳田国男の言う「山人」への憧れだな。そのことが、民俗学的追求の一つの方法として山を彷徨うきっかけにもなっているだろうし、また東北を知りつくしたいということは、自分の中に欠落しているものが、あそこにあるんじゃないかということだったわけです。だから、東北はぼくにとって「苦々しき彼岸」だったし、歩いても歩いても所詮は彼岸にすぎなくて、渡りきったということは、ついにあり得ないだろうとおもうな。結局、自分の足場とか思考のベースとかとくらべて、やっぱり違うんじゃないかという疑問と残念さだけが、そのたびにひっかかってくるけどね。わかったとか、手触りで確められたと思ったら、もう東北へは行きませんよ。彼岸は幻想なんだし、それが「苦々しき彼岸」であればあるほど、実在感があるという気がしている。物を追うというのは、つかまえてしまってからわかるのじゃなくて、追っているときがすべてなんだ、とも言えるしね。
寺山
 おそらく松永伍一は、青森を旅行して、港町の食堂でうどん啜っていても、同じように、「東北へ行きたい」と思いつづけるのじゃないか、って気がする。東北六県を一巡しても、最後の感想は、「ああ東北へ行きたい」ってことだろうと思う。彼岸というのは本来、そういうものだ。ぼくは自身の彼岸について言えばこどものころ、日の当たってる遠景に対する願望というのがいつも、あった。「遠山に日の当たりたる枯野かな」だね。ところが、日なたはいつも移ろっている。雲が動くと、たった今の日なたがたちまち翳る。少年時代に観たビットリオ・デ・シーカの「ミラノの奇蹟」のなかで貧しい人たちが、日なたに集まってくる。すると雲がザーッと動いて、日なたが別の方にできる。皆、その新しい日なたに向って一目散に走ってゆく。皆が寄ってたかっって日なたにたどり着くとまた雲がスーッと動いて、日なたは遠ざかる。日なたは南とは同義語ではなかったが、ともかく「ここではない他の場所」であることだけは確かだった。それが、いつからか「東京」という言葉に換喩された。つまり東京が彼岸となった。そして、東京に住みついてもう二十年もたつのに、今でも「東京」という二字を見ると、やっぱり少年のように胸が躍る。東京というのは、杉並でも世田谷でも渋谷でもない、要するに、いわゆる東京なんだね(笑)。松永さんの「東北」が、そういうものかどうかわからないけれども、しかし虚構としての風土を一つ想定し、それと自分の欠落部分とを対応させて両者の緊張関係を生み出しながら、自己の偶然性を組織していく。それが松永伍一のドラマツルギーといえるかも知れないですね。
松永
 そうだと思うな。いま光の話があったけれど、北欧の人たちは光が地上に当たっているところに光を求めて集まる習性をもっているが、あれが非常にぼくには奇妙で、哀しくすばらしいものにも思えてくるんだ。おそらく南の光の量の多さの中でぼくが育ったからでしょう。だからね、福岡よりもっと南の鹿児島なんかに行くと、早々と飽きてくるんだな。物を見ても、人と会っても。北に行けば行くほど胸がはずんでくる。いまでも。上野から北へ向って汽車に乗るときの心のはずみは、南に行くときと違う。それは光を求めて集まる人たちの「光への渇望」に似た感覚が、ぼくのなかになかったからで、恵まれすぎているときは、何かを失なっているということの証明にもなるとおもう。光の問題は色彩の問題にもなるよ。ぼくらは後期印象派に近い色調を生活の周辺に持ってきたから、ムンクに魅せられたりするんでしょう。だから、ときたま思うけど、季節的にできるだけ行きにくい時期を選んで、北欧に行ってみたい。この前アラスカのアンカレッジでちょっっと降たけれど、氷河の上などを飛んでるとぼくはこの飛行機に乗らないで、そのままとどまっていたい衝動にかられたね。
寺山
 ぼくが北欧を旅して感じたことは「北欧には、光の時間が全然ない」ということだった。それは闇の時間が全然ないということの裏返しでね。北欧では、真夜中の十二時でも、路上で本が読める明るさがある。白夜ですね。つまり、ぼくの北国と北欧とでは「北」のイメージがまるでちがうという感じを持った。ぼくは自分に似合う、醤油くさい戸のすきまから雁のとんでゆくのが見えるわが家の北方ともっとも似てるのは北欧やアラスカじゃなくて、たとえばニューヨークのイーストのほうの、階段だらけのスラムのビルの屋根裏あたりのような気がするんだね。あるいはシカゴの養老院の中庭の日なたとかね。それにくらべると原生林がバーッとはえてる、北欧の風景というのは毛深い肉の感じで、さむい南というイメージがつきまとう。大体、東北の人間というのは、自分の居場所をつねに考えるという本能があって(笑)。ぼくは自分が非常にそうなんだな。映画館へ入っても、青森東宝に入った場合には、うしろから二番目の、右から四番目の席が「自分の席」だと決めてある。そこに誰かすわっていると、その人が帰るまでその映画見なかったりするわけだよ(笑)。どこへ行ってもそうした場所がある。喫茶店アカシアなんていうのは、入ると左側の二番目のテーブルが自分の「場所」だというふうになる。そういう性癖は成長してもずっとついてまわっていまでも同じレストランでは同じテーブルで食事するくせが抜けない。その同じテーブルでもコーヒーを置く場所が限られてくる。次第に場所はせばめられ、固着化しはじめる。こうした自分の場所に対する執着というのは、一体何だろうか? 案外「土着」という言葉の本来的な意味は土から離れないということじゃなくて、「場所」と自分との関係が時間的に持続されてゆくということなんじゃないか? つまり、カタツムリみたいにどこまでも、自分の「場所」の発想を持って歩くということじゃないか。もし、そうだとすると、これを近代によって超克しようとしても一筋縄でいくことではない。
2 3 4 5 6 7
このエントリーをはてなブックマークに追加
寺山 修司 氏の関連記事
松永 伍一 氏の関連記事
読書人アーカイブスのその他の記事
読書人アーカイブスをもっと見る >
学問・人文関連記事
学問・人文の関連記事をもっと見る >