文学が持つ力 文学の側から声を発し続けることの意味|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

文芸
更新日:2019年12月26日 / 新聞掲載日:2019年12月20日(第3320号)

文学が持つ力
文学の側から声を発し続けることの意味

このエントリーをはてなブックマークに追加

今年の文芸を振り返る上で欠かせないのが、リニューアルした『文藝』(二〇一九年秋季号)の大ヒットだろう。一九三三年の創刊号以来の三刷となり、大きな話題を呼んだ。『文藝』の編集部は、文芸の世界と私たちの社会の接点を、「韓国・フェミニズム・日本」という特集のなかに見出したのである。具体的な作品について、時評では触れることができなかったので、印象に残った作品をここに評しておきたい。

チョ・ナムジュ「家出」では、七十一歳になる父親が家出をする。母は、帰ってこない父親への心配が爆発し、二人の兄と「私」を呼び戻す。久しぶりに集まる家族の対話から浮かび上がるのは韓国の「家」のあり方であり、父の不在が見せる家族の本質だ。

高山羽根子「名前を忘れた人のこと」は、名前も顔も思い出せないけど、何か「私」にとって重要なことを示唆してくれた「彼」をめぐるものだ。「彼」は顔のようなものを作るアーティストだった。それ以上のことは覚えていない。しかし、韓国へ旅行をしたときに、ふと、思う。もしかすると、「彼」は韓国籍だったかもしれない。というのも、民族博物館に並べられた仮面と、彼の作る作品がどこか似ているような気がしたからだ。規模の大きな、自分自身の力では抗えない運命と、きわめて個人的な思想をどうにかして擦り合わせて表現しようとしていたのではないか。「私」は、思う。なぜ、あのとき、深くそのことについて聞けなかったのか、それは(日本人として)自分が加害者である可能性があったからだ。歴史の奥深くで、なんらかの形で、加害―被害の関係性をもっていたのではないか、と考える。物語は、どうやっても抗えない運命を、どうやって私的なものとして捉え返すのか、そのことを主題としている。記憶のなかで完全に忘却されずに残っている理由は、自己のなかでそのことがうまく処理できていないからだ。他国に対する加害者意識を、今、持つこと。その意味を作者は考えている。

深緑野分「ゲンちゃんのこと」。この物語は、ジェンダー的な差異が現れはじめ、そのことにどうしようもない感情を抱く中学三年生の「私」と、一年前に転入してきて、割と荒くれ者として有名だったゲンちゃんの、極小の空間に生じた「違い」をめぐるもの。私」は喧嘩っ早い性格の持ち主だったがこの頃になると、男子に腕力で立ち向かうことができなくなった。そのことに失意を抱きつつ、学校生活を送る。ゲンちゃんとは文化祭の準備を通じて仲良くなる。彼の家に友人とともに招かれた時「私」は鈍感なことに、そこにある「違い」の意味がわからなかった。その「違い」について友人に説かれた「私」は「この違いを嫌悪して振るわれる暴力が、学校にも、私の家族の中にさえあり、ゲンちゃんと家族はそれと闘っているのだ」と気づく。極小の空間に生きる「私」の周りには無数の「暴力」がある。大人になることはそれを甘んじて受け入れることなのか。小説は差別や暴力を無自覚に内面化している我々読者に、そのことを改めて考えさせる。「私」の抱える失望は、大きい。その失望を、想像力をもって、推察すること。文学が持つ力はそのことを可能にする。

また、MOMENT JOONによる自伝的小説「三代」は韓国社会における兵役とは何かを深く考えさせる作品だ。韓国の日常が兵役の上に成り立っているとすれば、それは一体どのような意味を持つのか。私たちの目には映らない問題を描いている。

こうした、文学でなければ見ることのできない韓国と日本という非常に近接した国の内奥に潜む問題を、同誌は浮かび上がらせた。ヒット云々の前に、文学史上、とても重要な仕事をしたと思う。なお、この特集は完全版として大増補の上、単行本化された。同誌を読んだ方も、手に入らなかった方も、是非、手にとってほしい。

それ以外に、「平成とカルチャー」という特集を組み、倉本さおり「『少年ジャンプ』論」、清田隆之「さくらももこ論」、矢野利裕「小室哲哉論」を掲載した『すばる』三月号は、令和時代に向けてあるべき批評の姿を提示した。また、『文學界』九月号の特集「『文学なき国語教育』が危うい」も現在の国語教育改革に大きな一石を投じるものだった。SNSでは文芸誌に何ができるのかという発言を見かけたが、こうして文学の側から声を発し続けることに意味がある。

さて、最後に、北条裕子『美しい顔』について触れておこう。同作が第六十一回群像新人文学賞を受賞をした後、大きな議論を呼んだことは本誌をお読みの方ならご存知だと思う。大幅な加筆・修正を経て、今年の四月に単行本として刊行された。しかし、文壇は単行本化された本作についてほとんど黙殺をしている。書評も『群像』六月号に掲載された田中和生以外のもの以外はほとんど見当たらない。私は、同作を数多の震災を描いた小説のなかでも、極めて優れた作品だと思っている。震災を描くことを小説家がやめないためにも、本作の意義をもう一度、この八年ほどの文学史のなかで問い直すべきではないか。(ながせ・かい=ライター・書評家)
このエントリーをはてなブックマークに追加
長瀬 海 氏の関連記事
文芸のその他の記事
文芸をもっと見る >
学問・人文 > 評論・文学研究関連記事
評論・文学研究の関連記事をもっと見る >