築地正明×堀千晶対談 この「世界」を信じる 『わたしたちがこの世界を信じる理由 『シネマ』からのドゥルーズ入門』(河出書房新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年12月27日 / 新聞掲載日:2020年1月3日(第3321号)

築地正明×堀千晶対談
この「世界」を信じる
『わたしたちがこの世界を信じる理由 『シネマ』からのドゥルーズ入門』(河出書房新社)

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「私たちはこの世界を信じる理由を必要としている」。ドゥルーズの発したこの叫びの内側に、今こそ赴かなければならない。(本書「序」より)

二〇世紀を代表するフランスの哲学者ジル・ドゥルーズ(一九二五―一九九五)によって一九八三年と八五年に著された二巻からなる映画論『シネマ』。この秋、難解として知られるこの『シネマ』をベルクソンの「仮構作用」を鍵に読みとき、「この世界を信じる」というテーマへ挑む、画期的なドゥルーズ論が刊行された。本書の刊行を機に、この本がデビュー作となる著者の築地正明氏と独自のドゥルーズ論や翻訳を多く手掛ける仏文学者の堀千晶氏に対談をお願いした。           (編集部)
第1回
『シネマ』の「仮構作用」

築地 正明氏
堀 
 築地さんの本のベルクソン読解に、強い印象を受けました。一般的に『シネマ』を論ずる際には、ドゥルーズ自身の叙述の順序にしたがって、『物質と記憶』第一章におけるイマージュ論から入り、次に記憶論に向かうというのが常道だと思います。けれども築地さんは、ベルクソンの「仮構作用(fabulation)」を最初に論じ、そこを鍵にして、ドゥルーズの『シネマ』を読みといていく。記憶の話も、言語行為としての「仮構作用」のあとに出てくるわけですね。その力点の置き方が独特で、『シネマ』論として非常に特異なものです。

念のため確認しておくと、ベルクソンのイマージュ論の中では、物質と知覚の区別がつかない中間的なものとして、イマージュが設定されます。宇宙は、それぞれ相互に関係しあうイマージュで満ちているというヴィジョンで、ドゥルーズがベルクソンの唯物論と呼ぶものです。一方、記憶については、まず現在があってそれが記憶になるのではなく、記憶のほうが現在よりも先に存在しているとされる。いわゆる純粋記憶ですね。こうした思考方法をめぐる議論の中で疑問として出てくるのは、言語の位置づけはどうなるのか、という点です。

ここ十年来、人間主体の意識や言語と相関しないものを、いかに考えるかという、いわゆる「相関主義」の「外」の問題が論じられていますが、『シネマ』も、そうした議論と接続可能です。つまり、言語というフィルターを通っておらず、また人間が知覚していようがいまいが、想起していようがいまいが、実在しているイマージュということですね。しかし、その中でもう一度問いとして浮上するのは、言語を、その行為性をどう考えるかという問題です。それが築地さんの議論の中で強く前面に出ていて、非常に意義深いと思います。
築地 
 ありがとうございます。今回の本では、『シネマ』はイマージュ論でありながら極めて鋭く言語の問題を突きつけているのではないかという考えから出発しているところがあります。

『シネマ』はある面で世界的にメジャーな本になっていると思いますが、僕自身何が一番『シネマ』に惹かれたかというと、『シネマ』を深く読み込んでいけばいくほど、メジャー性とは相容れないような非常にマイナーで孤独な様相が見えてくる。その一番底の核に降りていったところに「信仰(croyance)」の問題が出てきます。それは「信仰」と訳すべきなのか「信頼」と訳すべきか、あるいはただ<信>と訳すのがいいのか。「信仰」といった場合、日本語だとかなり宗教的な印象が強まります。しかし、そういった意味ではなく、いわゆる宗教や超越的なものを介さずに「世界」そのものを信じる。ドゥルーズが語る、一般性ではない「映画」が世界と関わろうとする思考を突き詰めたときに、まさに「信仰」の問題に降りていくことになると思うんです。この世界との間の絆、あるいは信頼、そういうものをわれわれにもたらしてくれる装置としての映画、そこがやはり『シネマ』の核になってくるのではないか。それは一般的な映画の理解とはかけ離れた、極めて特異な考え方だと思うのですが、映画の本質といったとき、ドゥルーズは作品・作家との絶え間ない関係を構築することによって思考していました。だから抽象的に〈信>を担う装置というとリアリティに欠けますが、実際に作品を思い浮かべて考えてみるなら、全然大げさな話ではない。例えばタルコフスキーの『ノスタルジア』のような作品を思い浮かべたときに、それは全く抽象的な話ではなくなり、極めてリアリティのあるものになり、なおかつマイナーで絶対にメジャー化できない理念にもなる。映画が世界に対する<信>を担うという考えは、ドゥルーズだけでなく、実は昔からいろんな人がいろんなニュアンスで語ってきたことでもあるんです。そういうものを『シネマ』の中でドゥルーズは、改めて語ろうとしていたのではないかと思います。

また、『シネマ2』から晩年の『哲学とは何か』に至る、八〇年代後半から九〇年代にかけてのドゥルーズの思考の中で、「仮構作用」の概念の重要性がせり上がってくるようなところがあると僕は感じていて、ドゥルーズは『千のプラトー』のあれほどの達成の後で、再び「仮構作用」の概念と向き合うことになった。そしてその後期ドゥルーズ哲学において要となる「生成」や「出来事」の概念に不可欠なものとして、「仮構作用」を自分の哲学の核心に象嵌しようとしたところがあるのではないか。そのことを僕は『シネマ』だけでなく『シネマ』以降の著作にも感じていて、この問題が一番大きく最初に取り上げられた『シネマ2』がある種の発火点のようなものになっていることを考えると、この概念を前景化することによって、はっきりと見えてくるものがあるのではないかという思いがありました。
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この記事の中でご紹介した本
わたしたちがこの世界を信じる理由/河出書房新社
わたしたちがこの世界を信じる理由
著 者:築地 正明
出版社:河出書房新社
以下のオンライン書店でご購入できます
「わたしたちがこの世界を信じる理由」出版社のホームページはこちら
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