表町通信 ・1月 ―― ローザ・ルクセンブルクの頭蓋骨   鎌田哲哉|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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表町通信
更新日:2020年1月18日 / 新聞掲載日:2020年1月3日(第3321号)

表町通信 ・1月 ―― ローザ・ルクセンブルクの頭蓋骨  
鎌田哲哉

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2020年の「論壇時評=論潮」は、批評家の鎌田哲哉氏に一年間担当していただくことになった。鎌田氏の強い希望により、連載タイトルは「表町通信」とした。題名に関しては、本文を参照いただきたい。(編集部)

第1回
ルクセンブルク死後百年

ローザ・ルクセンブルクの手紙をお読みなさい。そして、人々が互いに異なるのは外見上の運命においてであり、感情や行動はそうでないのを決して忘れないで下さい。(アインシュタインから子供達へ、1929年)

二〇一九年が終る。やりかけの大切な「仕事」にけりを付けられず、あきれるほどに単調に私の一年はすぎた。それはこの数年と同じだが、一つだけ違いもある。(今年は、ローザ・ルクセンブルクが殺されて百年だ。)雑用の合間に、時々そう思った。心が自然にそうつかまれていた。年内はもう無理だが、彼女について準備中の文章が私にも複数ある。心が古びず、記憶が辛くも確かなうちに、いい加減にそれらをまとめないといけない。それなのに、いざ書き始めると変身・・できない。ノートの堆積に無限にのみこまれ、それを「作品」化して机上に戻れない。仕方がない、外をぶらつき、久しぶりにそこらの新刊雑誌を見てみよう――自慢でないが、私は普段は一切本屋に行かない。

もちろん、まともなルクセンブルク特集や批評が店頭にあるわけがなかった。それでいいし、それいいとも言える。大昔(一九八三年)の「マルクス死後百年」の騒ぎを思うがいい。あの時の無数の討議や駄文が、何一つ時間に勝てずに絶滅した事実を想起するがいい。ルクセンブルクを読む者は、その種の愚劣に絶対に加担してはならない。我々は、今年も来年もその次の年も、少しも変らぬ深い長い射程で彼女を読むべきである。だがやはり――これは忘却であり沈滞にみえる。御茶の水書房の連中がしくじった、例のルクセンブルク全集の刊行中断がその象徴である所の、彼女に関する批評戦線の単なる腐敗、単なる崩壊にみえる。それは、世の中に正気な連中が殆どいなくなったからなのか。佐藤零郎が言う「真の左翼になる」手がかりを、我々の誰もが失いかけている、ということか。

だから、連載の最初に私はルクセンブルクに触れたい。いくつかリクエストがあるのだ。たとえば、『資本蓄積論』が厳正に経済学的であると同時に根本的に政治的な書物である事実――マルクスの精神に基く所の、マルクスに対する彼女の革命的批判こそが決定的で、それを承認できずに「ルクセンブルクは誤りを犯したが鷲だった」レベルの「評価」を続ける限り(要するに、彼らは「鷲ではあったが誤りを犯した」と言いたいだけだ)、我々が必然的に改良主義の泥沼に崩落する以外ない事実。誰かにこれらを明快に、状況的に描いてほしい。ルカーチの『歴史と階級意識』が、みかけ上ルクセンブルク論の体裁をとりながら、結局は「勝てば官軍」式の理屈に依拠するレーニンへの無惨な追従に終っている事実、このことも誰かに、噛んで含めるように示してほしい。私は私で、ヨギヘスには何が欠けていたか・・・・・・・・・・・・・・を書きたい。「スプラヴァ・ロボトニチャ」(労働者問題)の労働者通信号の編集過程の持つ意味を、あるいは「消耗か闘争か」や「理論と実践」のカウツキー批判こそ、レーニン批判よりはるかに根源的で重要である事実を必ず書きたい。と言っても、この紙上で「中身そのもの」を扱うのは無理である。だからここでは、その手前でそれら全てを促す導きの糸だけを示そう。私が言うのは、ルクセンブルクの「骨」である。その頭蓋骨のことである。
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