中平卓馬をめぐる 50年目の日記(37)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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中平卓馬をめぐる 50年目の日記
更新日:2019年12月30日 / 新聞掲載日:2020年1月3日(第3321号)

中平卓馬をめぐる 50年目の日記(37)

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連絡はいつも街頭や道端にある電話ボックスの公衆電話を使った。

朝、そのボックスの水色の受話器から逗子の中平さんに電話をすると、クラインのことで調べてほしいことがあるから会いたいと言う。だからその日は東京駅八重洲南口改札口を出て直ぐの中二階にあった喫茶店アートコーヒーで落ち合った。

訊くとクラインについての情報をもっとほしいとのこと。
「ではこれから明裕国際会館の図書室へ行って調べます。夕方にその報告をします」

すると中平さんも一緒に行くと言う。「ただその前に電話を一つさせて」とレジ横のピンク色した電話機の所へ向かった。だが慌ただしくテーブルに戻ってきて「直ぐ行こう」と広げたノートをバッグに放り込んだ。駅前からタクシーに乗り込み有楽町へ向かった。車中でどうしたのかとたずねると、「ゲバラが死んだって。わけが分からないけど直ぐ来てくれって言うんだ。明裕は後回しにして一緒に行こう」。

「アサヒグラフ」に着くと、中平さんは直ぐ数人の記者たちに拉致されるように違うフロアのどこかへ連れて行かれた。私はしばらくソファーに座って待っていたが、小一時間経っても戻ってこない。時間の無駄だから三原橋の明裕国際会館に行こうと思い、そばにいた記者に伝言を頼もうとしたその時、編集部に電話があって「そのまま待っててくれって、中平さんが言ってるそうだよ」と私への伝言を知らされた。そこへ中平さんを連れて行った中の一人が戻ってきて、「だいぶかかりそうだけど待っていてやって」と言う。「いったい何が起こっているんですか」と私は苛立って口を尖らせていたのかも知れない。
「ハバナに電話をしてもらっているんだよ、急だったからスペイン語屋が足りなくってね。終わったら一杯やろう、だから待ってやって」となだめるように私に言った。私はとにかく戻るまで待つことに決めた。

ゲバラの死は1967年10月9日。新聞社に飛び込んできて知ったその日時と実際の死の日時の間にどれくらいのタイムラグがあったのか、ボリビア政府の発表の正確さ、真偽さえ掴みかねているような状態だったから、メディア各紙誌はニュースの裏付けに躍起になっていたのだろう。

あとで訊くと、中平さんはキューバ共産党機関誌「グランマ」のどこかとの窓口役を頼まれたようだ。中平さんは取材記者兼通訳。中平さんによる質問と彼を取り囲んでいる何人かのために通訳もするという多重の役回りだ。

それほど中平さんのスペイン語はプロフェッショナルだったと言うことだろうが、長時間にわたって独りで受話器を握り、メモをとりながら、周りの記者連にも梗概を説明して、それはどれほど神経をすり減らす時間だったろうか。

「アサヒグラフ」に戻ってきた彼は疲労困憊の姿だった。待っていたさっきの記者が「一杯行こうか」と誘っても、「いや、今日は帰る」のひとことで断った。一緒に外にへ出るともうすっかり日が暮れていた。
「ああくたびれた。今日はくたびれた。外語大卒のなれの果て、っていう感じを見せちゃったね。あなたは外語大に入らなくて本当によかったよ」と力なく笑った。

突然のハードワークと、ゲバラの死への特別な思いとが合わさったような憔悴ぶりが心配になって、新橋まで一緒に歩き、横須賀線のホームで逗子止まりの電車に乗り込むのを見届けた。結局その日はクラインを調べられないままに終わってしまった。(やなぎもと・なおみ=写真家・東京造形大学名誉教授)

   (次号へつづく)
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