文芸 〈一月〉 荒木 優太 あけおめことよろモンキー  高橋弘希「飼育小屋」、東山彰良「猿を焼く」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2019年12月30日 / 新聞掲載日:2020年1月3日(第3321号)

文芸 〈一月〉 荒木 優太
あけおめことよろモンキー
高橋弘希「飼育小屋」、東山彰良「猿を焼く」

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ウェーイ、荒木優太だぜ。今月から伝説の時評の始まりなんだぜ。よろしくな!

今月の『新潮』の目玉は村上龍の長篇「MISSING 失われているもの」だろうが、私には退屈だった。ある作家の記憶から抜け落ちた過去を過剰な想像が生み出すナビゲーションの声に従いめぐっていく遍歴譚だが、そのナビの声というのが、真理子(恋人の一人)と母親なのだ。おいおい、ダンテだってベアトリーチェに会う前はウェルギリウスというめんどくせえおっさんと一緒に旅せにゃならんかったんだぞ。ちょっとお前の人生に興味ないっスねって感じである。あとタイトルが糞ダサい、『STAND BY ME ドラえもん』かよ。いま捲ってて気づいたが末尾には「本作は村上龍氏のメールマガジンJMMに二〇一三年から二〇一九年にかけて連載されました」とあって、どうやら文芸誌用に書き下ろしたのではないらしい。紙と電子、同時連載していくのならともかく既出のものをこういうかたちで再録していいのかという疑問もあるが、ファン向けということならば余りぶつくさいうのも野暮かもしれない。ハイ、まあ、いいんじゃないですかね。

高橋弘希「飼育小屋」(すばる)を読むと、失われた記憶なぞどうでもいいことを教わる。転校を繰り返していた中学時代での一景。飼育小屋で鶏や兎の世話を任されていた「私」は、放課後のモーツァルトの校内放送を背後に、堀口という少年がイジメられるさまを日常的に目撃することになる。ある日、ひょんなことから堀口は出血を伴って激しく転倒、イジメ集団はその体を手押し車で校舎裏に運ぶが、彼がどうなったのか記憶がない。翌日、南京錠の締め忘れで鶏がすべて逃亡したことが発覚しひどく叱られたことは覚えている。「記憶していないということは、大した事態にはならなかったのだろう」と彼は書くが、信用できるかは疑問だ。もっといえば、最後に出てくる「少年期に負った、三十二針の醜い縫傷」は、「私」とは堀口の現実回避のための虚構的な視点だったのではないかと勘繰らせるに足る。飼育小屋で飼われているのは誰なのか、就職氷河期の時代設定とともに奥深く響く問いだ。一箇所、作中の悪夢が旧劇場版エヴァっぽいのが良いのか悪いのかは保留中。

動物絡みでいえば、東山彰良「猿を焼く」(群像)と小山田浩子「子猿」(文學界)がともに題名に「猿」を採っていて少し笑った。東山作は東京から福岡に引っ越してきた孤独な少年が己の畜生根性と向き合う話。見知らぬ土地で唯一信頼できたはずだったのに、実家と貧困に縛られ性を売りものにするしかない少女・涌井ユナの痴態を見ようとするクズに成り下がる。責任転嫁するように、かつてユナと交際していたらしい笹岡俊満とともに、ユナを殺害した男が飼っていた猿をなぶり殺して焼き、その動画をネットに投稿する。小山田作は微妙にぎくしゃくした子育て中の夫婦関係を点描。街に猿が出現した小事件をきっかけに不和というほど決定的ではない擦れ違いが次々と露わになっていく。

この二作ならば私は東山作を推す。というより、『群像』は新年短篇特集として二四作を掲載しているがそのなかでも出色だ。白石和彌監督で映画化しても違和感ない。猿焼きは一方では復讐だが、鎖をつけたアンフェアな状態でのその一方的な暴力と見世物化はそのままユナの悲劇をなぞらせもする。実際、主人公は「ぼくのほうは彼〔笹岡〕と同じだということを証明したくて死んだ猿に火をつけた」というホモソーシャリティを隠さない。その意味でいえば、トーンのまるで異なる小山田作が「猿の前で人間のやることを見せたらね。それを猿は真似するんだって」「だから猿の前では人間らしいことをしちゃいけないんだって」と、鏡としての猿の比喩を選択するとき、意外な批評的連関を読むことができるかもしれない。猿は人間をコピーする。猿を人間化させないためには、だから二つの選択肢が、つまり猿を猿のまま殺すか、「人間らしいこと」を隠し通すか、選ばねばならぬ。東山作の主人公は前者を選び、畜生な自分もろとも焼こうとするが、正しくその行為そのものが彼を取り巻いていた男性的暴力の猿真似でしかない。猿を焼くことで猿が増える。残る選択肢は一つだが、それにしても「人間らしいこと」とはなんだろう?

小山田作はフェミニズム的読解も許し得るテクストだが、フェミ小説の流れは二〇二〇年もそれなりに強いと予測する。締め切りの都合上、中身を確認できてないが、復活予定の『早稲田文学』も特集はフェミのようだ。今村夏子「的になった七未」(文學界)は不気味な雰囲気の漂う味わい深い寓話ではあるものの、私はそれ以上に、現代色がやや露骨であっても同誌の藤野可織「美術少女」に多くの言葉を費やしたいと思った。が、残念ながら紙幅である。
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