聖者のレッスン 東京大学映画講義 書評|四方田 犬彦(河出書房新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
更新日:2019年12月28日 / 新聞掲載日:2020年1月3日(第3321号)

聖者のレッスン 東京大学映画講義 書評
神なき時代に宗教的な情念を問う
ドライヤー、ブレッソン、ロッセリーニ、ジャーマン、パゾリーニ…

聖者のレッスン 東京大学映画講義
著 者:四方田 犬彦
出版社:河出書房新社
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 四方田犬彦の『聖者のレッスン 東京大学映画講義』は、東京大学文学部宗教学科で行なわれた講義の書籍化である。映画における聖者の表象という主題が、様々な具体例を通じて考察されている。

相対的な価値しか持ち得ない表象の彼方に、神という非科学的な存在が実在すると信じたくなるのが、人間の心情というものだ。聖者の表象も勿論表象の例外ではあり得ないが、神という絶対の媒介として人の信仰を導くことができる。四方田犬彦はまずジャンヌ・ダルク、聖フランチェスコ、聖セバスチャン、イエス・キリストと、カトリックの聖者と始祖を取り上げる。映画としては、ドライヤー、ブレッソン、ロッセリーニ、ジャーマン、パゾリーニなどの作品が分析される。次に、著者は東アジアに目を向ける。女神の媽祖、大本教の出口王仁三郎、さらに親鸞を取り上げ、ホウ・チェン、出口王仁三郎本人、三國連太郎などが監督した映画を分析する。

四方田犬彦はあくまで学者として聖者の表象を論じており、信仰者として論じているのではない。だからこそ、「あらゆる信仰というものを等価に見る立場」(三三八頁)に立てるのだ。この立場は最初から明白なのだが、信仰者とのずれが切実な問題として顕在化するのは、親鸞の回においてである。四方田犬彦は親鸞の思想を説明しながら、「ここから先にどうしても踏み込めない」(二〇七頁)と語って、受容を拒絶してしまう。講義の主題がここで宗教から一旦逸れるのは自然な成り行きだろう。著者は続いてネメシュ・ラースローの『サウルの息子』などを例に挙げながら、ナチスの強制収容所に関する表象の禁止の問題を考察する。ここでもユダヤ教の問題が絶えず浮上してくるとはいえ、議論の中心にあるのは、収容所を表象するという禁じられた行為をいかにして行なうかという問題である。

講義はブニュエルの『ナサリン』とともに宗教に回帰して締め括られる。無神論者のブニュエルがカトリックを辛辣に描いたこの映画の分析が講義の結論部に置かれることは、宗教学者と信仰者の違いを強く意識せざるを得ない四方田犬彦にとって、必然的な構成だ。だが、無神論の称揚が著者の結論なのでは決してない。「わたしが無神論者であるのは、神様のおかげである」と、不敵にもブニュエルは言った。この監督はあくまでキリスト教の枠組みのなかで無神論の映画を撮ったのだ。四方田犬彦も絶対的な基準のない無戒の世界を否定しようとする。破戒も戒律があってのものであり、無戒では破戒さえあり得ない。そんな無戒の世界は不安に満ちているというのだ。著者が「無戒の中で宗教的な情念を分析」(三四二頁)したのは、こうした無戒の世界から解放されるためである。神の死を自覚しもはや信仰を持てない人間が、相対的な価値しか持たない表象に囲まれながら、何か絶対的なものを探し求める。だが、一体何を見つけることができるのだろうか。
この記事の中でご紹介した本
聖者のレッスン 東京大学映画講義/河出書房新社
聖者のレッスン 東京大学映画講義
著 者:四方田 犬彦
出版社:河出書房新社
以下のオンライン書店でご購入できます
「聖者のレッスン 東京大学映画講義」出版社のホームページはこちら
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