三島由紀夫×種村季弘×磯田光一 エロス・権力・ユートピア――座談会〈美的日本文化〉論 『週刊読書人』1968(昭和43)年11月4日号 1面掲載|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2020年1月1日 / 新聞掲載日:-0001年11月30日(第749号)

三島由紀夫×種村季弘×磯田光一
エロス・権力・ユートピア――座談会〈美的日本文化〉論
『週刊読書人』1968(昭和43)年11月4日号 1面掲載

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1968(昭和43)年
11月4日号1面より
混沌とした日本の思想・文化界で、「文化防衛論」「わが友ヒットラー」などを最近発表し、ユニークな活動をしている作家の三島由紀夫氏を囲んで、評論家の種村季弘、磯田光一氏に出席してもらい、現代の思想的課題である「エロス・権力・ユートピア」について語り合ってもらった。(編集部)(編集部)
第1回
天皇制は理想の芝居――〈文化防衛論〉のはらむ問題

磯田
 どんな時代がきても、人間のもっている属性のうちで最後に残るのは、セックスと権力じゃないかという気がします。日本には天皇制があり、それがファシズムとして機能したことがありますし、二十世紀ではナチスやスターリン主義というものが出てきて、非常に無気味な政治体制を確立したわけです。そういうものに対して、いままでは、ヒューマニズムの立場からそれを批判する議論が圧倒的に多かったと思うんですが、むしろそういうものの成立する根っこにある根源的な衝動を突き詰めていくと、やはりエロチシズムの問題にぶつかるんじゃないかという気がするわけです。
それで三島さんは最近『文化防衛論』をお書きになり、それから戯曲で『わが友ヒットラー』を書きあげられたところですし、スターリンの問題にしても、これは戦後という時代を非常に類型的にとらえれば「近代文学」派が蔵原惟人を批判して、とにかく戦後派の出てくる端緒をつくった。そうすると、戦後という時代は、ある意味でオール・トロツキスト時代に対する反逆として、ネオ・スターリニズムというものが出てきてもおかしくないんじゃないか、という気さえするわけです。あの『文化防衛論』はなかなかいろんな問題を含んでいますね。
種村
 ぼくが読んだ感じは、非常に演劇論的だという感じがしたわけです。というのは、絶対的倫理性と無差別包括性というものが一体になっている。たとえばシャインとしては身分封建制で、ザインというか、中身はアナーキーだという……。だから君主なら君主あるいは人民なら人民というものが、完全にそのロールを演じきることでエキヴァレントになる。何かそういう感じがあって、それで文化史的な論じ方をやっていて、天皇が出てくるところなんかちょっとデウス・エクス・マキナって感じですね。
政治論文としてみると、ぼくは多少わからないところがあります。というのは、これは橋川さんも幕末の国学者と明治官僚政府の対立に言及していらっしゃるんですけれども、前に『保田与重郎論』の中で川村二郎という人が、壬申の乱の天武天皇の理想主義と官僚組織、それから戦争中の国民統制派と国体維新史観の対立をアナロジカルに論じていて、文学というものはリアル・ポリティクスに敗れるんだ。文学の敗北が、歴史の全体性というものを敗北したという形で回復する。だからそこに文学の根拠があるんだ。だいたいそんなことを、ちょっと表現違いますけれども、おっしゃられたんです。
そうすると、その文学の敗北というものが、三島さんの場合には、文学の根拠になるのか、あるいは行動の根拠になるのかということがちょっとぼくは疑問だったんです。
三島
 いまの種村さんにのおっしゃったこと、実に犀利な分析で、ぼくは一言もないんですが、はじめのお話に戻りまして、磯田さんの天皇、ヒットラー、スターリンというお考えに私は全面的に反対で、天皇をヒットラーやスターリンのごとき卑しい人間と一緒にしないでください。
ぼくが文化的天皇制ということをいうのは、自分の文学にとっては生きのびる原理であり、行動にとっては死ぬ原理であり、そしてさっきいみじくも種村さんが言われたように外側、つまりシャインが絶対倫理であって、ザインがアナーキーである。ここに天皇制の本質があると思うんでね。天皇制の無差別包括性というものは、その内側にあるんですね。そして天皇制の絶対的倫理性というものはその外側にある。これは橋川さんや何かの一派が言う顕教、密教というのとちょっと違うと思うんです。そしてその無差別包括性と絶対倫理性とが統一される形というのは、さっき種村さんのおっしゃったような演劇であり、演劇のもとが祭式だと思うから、まあ簡単にいっちゃえば祭政一致ということになるかもしれませんが、演劇においては、すべての思想が相対的見地から扱われて、どんな思想でも、この世に絶対的なものはない。もし絶対的なものがあれば、それは演劇の背後から支配する何物かであって、演劇自体は相対的な世界の理念の対立からしかドラマティックな緊張は生まれない。したがってそこでは、その対立の中に演劇という様式の含んでいる無差別包括性とアナーキズムがあるわけですね。しかし、演劇の形態自体は、古典的な様式をこんなに厳重に守っているものはありませんから、形式において演劇というものは、私は古典主義の演劇観をもっておりますけれども、一種の絶対的倫理性に近い美的倫理性をもっているというふうに考える。そうすると、あたかも天皇制というのは、そういうふうに考えると非常に簡単なんで、芝居なんですね。そういう理想の芝居を、スターリニズムとヒットラーというものは意識的にやっちゃった。そしてその人知の限りを尽くしたものが、破綻をしたと見ていいですね。天皇というのは自然発生的で、かつ、血による継承だから、破綻しない。
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