15000フランの顚末 フロベール『感情教育』論 書評|川中子 弘(水声社 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

  1. 読書人トップ
  2. 書評
  3. 読書人紙面掲載 書評
  4. 文学
  5. 15000フランの顚末 フロベール『感情教育』論 書評|川中子 弘(水声社 )
  6. 15000フランの顚末 フロベール『感情教育』論の書評
読書人紙面掲載 書評
更新日:2020年1月11日 / 新聞掲載日:2020年1月10日(第3322号)

15000フランの顚末 フロベール『感情教育』論 書評
「語らずに語ること」または「不可能な愛」について
刊行から一五〇年を経て炙り出される隠された物語

15000フランの顚末 フロベール『感情教育』論
著 者:川中子 弘
出版社:水声社 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 フロベールのよく知られた二つの小説、『ボヴァリ夫人』と『感情教育』は、どちらも「人妻の恋」(あるいは「人妻との恋」)をめぐる物語である。不貞の果てに自殺に追い込まれる前者の「道を踏みはずした女」と、「婦徳の鏡」を体現する『感情教育』のアルヌ夫人は、一見鏡に映したような正反対の女性像をなしている。本書がいみじくも指摘するように、『ボヴァリ夫人』のエマが「夫姓のくびき」を脱することで一個の女性として振る舞い始めるのとは対照的に、「アルヌ夫人」以外の呼称を持たないマリは終始ブルジョワ社会の道徳規範から逸脱することがない。女性の呼称をめぐるこの指摘は言われてみればその通りで、「エマ・ボヴァリ」という名がその制度上の所有者を指すのに対し、夫姓をはずした「エマ」は、『椿姫』の「マルグリット」やゾラの「ナナ」と同様、その「帰属」が不特定多数に亘ることを示唆している。

そのうえで、本書は二つの小説の意外な「拵えの類似」に目を向ける。著者の解釈を要約すれば、『ボヴァリ夫人』では社会的なコードからの逸脱があって「姦婦」に制裁が加えられ、その過程で「借金の取り立て」という経済的な手続が介入するが、『感情教育』ではこの手順が逆になり、貞淑な女性に規範からの逸脱を促すために経済的な原理が援用される。すなわち小説の主人公フレデリックは伯父の遺産一五〇〇〇フランをアルヌ夫人の夫の美術商に貸与するが、この貸与には明らかな下心が隠されている。そして『感情教育』をそのような物語として読んだ場合、一見脈絡のない錯綜した筋の展開に辻褄が合うのである。

この見立てが面白いのは、そもそも「伯父の遺産」が、旧体制下の舞台でコード化されていた台本作成上の常套だったからである(伯父の遺産が転がり込むことで文無しの主人公が窮地を脱し、もつれていた物語が大団円へと収束する)。つまり、「伯父の遺産」は「機械仕掛けの神」の世俗版なのであり、このありふれた約束事の中に巧妙な伏線が潜んでいるとはなかなか気づかない。

著者によれば、フロベールの小説ではこの遺産が文字通りの逆説として機能する。夫に対してなされた一五〇〇〇フランの貸与は、その妻をいわば借金の形に変えるからである。アルヌ夫人は一個の商品としてその所有権が主人公に譲渡されたのであり、この取引は、情熱の対象の人格そのものを消去することでフレデリックの恋を「不可能な愛」に変える。著者は小説の末尾に近い競売のエピソードを通してアルヌ夫人の隠喩的な死について語っているが、「所有」とは定義上「他者の殺害」にほかならないことはロラン・バルトが指摘している通りだろう。『感情教育』は、その意味で、バルトの言う「小市民的感傷性の原型」としての『椿姫』のカリカチュアと言ってもよい。

『感情教育』における「不可能な愛」は、従って初めから意図されたものであり、フロベールは主人公の恋が成就することのないよう、予め一五〇〇〇フランの貸与という伏線を置いたのである。その理由について、著者はある禁忌の存在を示唆している。フレデリックと年上の人妻との関係には、報われない恋物語に偽装された近親相姦のテーマが投影されているという仮説である。一九世紀のブルジョワ社会において、母子相姦もまた、明示的な表現が決して許されない禁忌の一つだったことは言うまでもないが、そもそも同時代との関係において、表現とは常に「不自由」なものなのであり、本書の綿密な論考は、フロベールの韜晦が、いかにして「語らずに語るか」を模索した作家の本質的な営為であったことを示している。言葉を換えて言えば、本書は、時に大胆な仮説を交えながら、年代物のワイン同様、ある種のブランドとして評価の定まった感のある一五〇年前の小説が、その成立の背景に極めて今日的な問題を滲ませていることを教えてくれるのである。
この記事の中でご紹介した本
15000フランの顚末 フロベール『感情教育』論/水声社 
15000フランの顚末 フロベール『感情教育』論
著 者:川中子 弘
出版社:水声社 
以下のオンライン書店でご購入できます
「15000フランの顚末 フロベール『感情教育』論」出版社のホームページはこちら
このエントリーをはてなブックマークに追加
読書人紙面掲載 書評のその他の記事
読書人紙面掲載 書評をもっと見る >
文学関連記事
文学の関連記事をもっと見る >