中平卓馬をめぐる 50年目の日記(38)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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中平卓馬をめぐる 50年目の日記
更新日:2020年1月13日 / 新聞掲載日:2020年1月10日(第3322号)

中平卓馬をめぐる 50年目の日記(38)

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ゲバラで「クライン論」書きの出鼻をくじかれた中平さんは、その後何日も原稿用紙の始めの一枡を埋められなくて困っていたようだ。電話をすると「仕切り直すから雑談に付き合ってくれないか」と言われてまた東京駅のアートコーヒーで会うことにした。

私は調べておいたクラインについてのメモを中平さんに渡した。と言っても、それまでに調べて渡してある以上の新しいことは殆ど発見できないまま。1956年に写真集『ニューヨーク』を出し、『ローマ』『モスクワ』と続いて『東京』は1964年。そのたびに話題にはなるもののこの写真家に関する情報はあまりにも乏しかった。

『ローマ』に対してイギリスのレジェンド写真家、セシル・ビートン卿が、「フェリーニは『この本は一遍の映画になるだろう。……これは最上のローマであり、クラインは今日の最上の写真家である』、と言っていた」という伝聞の引用を見つけたのが精一杯のところだった。

そんな情報難だったから日本のフォト・ジャーナリズムはクラインを観念的にしか語れなかったのかも知れない。中平さんは『ニューヨーク』を、その観念論的風潮の源である、当時隆盛のアメリカ社会学の言葉を使って語るのは安易に過ぎる、そういう写真ではないことがなぜ分からないのかと言うのだった。

彼は私が渡した幾ばくかの報告メモと自分のノートを繰りながら「材料は十分に集めてもらったからもういい。いかにつまらない評論が舞っているかが分かったからその憤りだけでも十分書ける。まあ念のためこれからイエナヘ行ってもう一度見てみないか」と言った。

彼はいつも厚いノートを持っていて、それがあらゆるメモのしまい所だった。仕事のスケジュールから打ち合わせのメモ、購入予定の本の書名、思いついたさまざまな事柄、引用に使えると思った一節の写し書き、原稿のための構成スケッチ等々、あらゆるものをその一冊のノートに記していた。

ノートは赤い厚紙の表紙がトレードマークになっていた「ジョセフ・ジベール」のもので、分厚くて横幅が少し広い、変型A5判の方眼罫線用紙。「パリ6区 サンミッシェル26番地 書籍と文具のジョセフ・ジベール」という文字が表紙のノートだった。中平さんはこのノートをどこで見つけてくるのか何年も続けて使っていた。年に三冊くらいは使っていたようで、新しいのを買うたびに私にもくれた。

私たちは歩いて銀座のイエナ書店に行った。洋書取り次ぎの会社はさておき店舗として開かれている洋書店と言えば、そのイエナと日本橋の丸善くらいと言う時代だ。晴海通りに面したイエナはみゆき通りに入る角にあって、一、二階が近藤書店という一般の本屋。その三階にイエナがあった。

中平さんは『ニューヨーク』を手に取り中に挟まれた別刷り冊子を広げ、「ほら、これをよく見てみてごらん」と私に向けた。マンハッタン島の略図がピクトグラム風に描かれ、そこに小さな数字がたくさん点在している。数字は頁。つまり撮影場所を示している。「これを追って見れば、肥大した文明の告発写真集だなんて言う擦り切れた言葉を使えるはずがない。そういう解釈を廃棄させようと言う写真だと思わない? イメージで撮った写真ではないんだ。闘志が湧いてきたから帰ってすぐ書き始めるよ」と言うのだった。

書き始めると聞いて、私は「編集者」としてホッとした。そして「ちょっと寄ってくるから」といって近い朝日新聞社の出版局へ駆け上った彼を外で待った。中平さんはすぐに出てきたが、「今晩の夜行寝台で秋田行きだって」と言う表情が渋面だった。(やなぎもと・なおみ=写真家・東京造形大学名誉教授)

   (次号へつづく)
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