倫理から解放された個人的な執念の活劇 セルジオ・コルブッチ『続・荒野の用心棒』|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2020年1月20日 / 新聞掲載日:2020年1月17日(第3322号)

倫理から解放された個人的な執念の活劇
セルジオ・コルブッチ『続・荒野の用心棒』

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2020年1月31日(金)よりシネマート新宿ほか全国順次公開
©1966–B.R.C.Produzione Film(Roma-Italia)Surf Film All Rights Reserved.

二つの対立する勢力が争って荒れ果てた国境の町。そこに一人の男が現れ、唯一の中立地帯となっている酒場を訪れる。いかにも西部劇らしいこの設定を用いて、イタリア人のセルジオ・コルブッチが撮った異様な映画、『続・荒野の用心棒』が再公開される。

男の名はジャンゴ。彼は復讐のために町に来て、憎き相手を倒して去る。クリント・イーストウッドが、後に『荒野のストレンジャー』や『ペイルライダー』で撮るのと同じ単純な物語だ。ペイルライダーは『ヨハネの黙示録』に登場する四騎士の一人として新約聖書的な想像力を背負う。だが、ジャンゴは同じく死の使いでありながら、そうした象徴性とは無縁だ。彼は馬にも乗らず、鞍を背負って棺桶を引き摺りながら、泥まみれの道を歩いて現れる。最愛の女を殺した男に復讐したい。それだけだ。その機会は早々と訪れるが、すぐに殺すのでは勿体ないと一旦逃がす。この遅延行為による迂回が映画の物語をなす。

イタリア映画なので、この作品は西部劇でありながらアメリカの建国神話を描くという大義名分から解放されている。それ故、無法の町に秩序がもたらされる過程という西部劇の得意な物語とも、表面的な関係しか持たない。アラン・ドワンの『私刑される女』を思い出そう。この映画でも、二つの対立する勢力が争う町にある人物が現れ、中立地帯の酒場を訪れる。やがてこの人物はリンチされそうになる。一般に西部劇は、復讐とリンチと裁判という、異なる主体による正義の追求の行為を通じて無法と秩序の物語を語るが、この作品も例外ではない。一方、『続・荒野の用心棒』が語るのは、最も個人的なレベルに属する復讐だけだ。確かに、ジャンゴの仇は元南軍兵士たちを率いる悪辣なジャクソン少佐で、少佐とその手下たちが一掃されるのはこの寂れた町にとって良いことだ。だが、ジャンゴは個人的な復讐にしか興味がなく、町の治安など一切頭にない。保安官も登場しない。

あらゆる倫理的な探究から解放されて、この映画は個人的な執念をめぐる活劇となる。ジャンゴが棺桶からガトリング砲を取り出し、少佐の手下たちをなぎ倒す場面を思い出そう。男たちが次々と泥まみれの道に倒れる描写の暴力性と凄惨さは、ウォークダウン方式の決闘の古典的な描写と大きく異なり、活劇の新しい型を切り開いている。それは死のスペクタクル化と言って間違いではないが、イタリアのレオーネやアメリカのペキンパーの活劇とは明らかに異質だ。コルブッチは彼らほどイメージの装飾性を信じていない。この監督の重要性がここにあり、彼は後に技法を洗練させ、さらに優れた映画を撮る。同じセルジオだが、レオーネよりもむしろコルブッチやソリーマのほうに新しい活劇の鍵がある。

さて、ジャンゴは最強の武器であるガトリング砲をあっさり手放し、少佐への復讐を果たすために墓場で待ち構える。このラストの対決が興味深い。両手を怪我したジャンゴが低い位置にいて、少佐と覆面をした五人の手下に立ち向かう。どう見ても勝ち目はないのに、彼は復讐への執念から気力を振り絞り、六人を一気に倒してしまう。どんな名手でも、こんなことはできない。だが、復讐者は復讐を果たすものだ。リアリズムへの配慮はなく、物語の論理が優先する。これが映画だ。

今月は他に、『マリッジ・ストーリー』『つつんで、ひらいて』『こおろぎ』などが面白かった。また未公開だが、カンテミール・バラゴフの『ビーンポール』も良かった。(いとう・ようじ=中央大学教授・フランス文学)
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