中平卓馬をめぐる 50年目の日記(39)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
マイページで記事のブックマーク!
ログイン
マイページ登録

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは マイページ

中平卓馬をめぐる 50年目の日記
更新日:2020年1月20日 / 新聞掲載日:2020年1月17日(第3322号)

中平卓馬をめぐる 50年目の日記(39)

このエントリーをはてなブックマークに追加

秋田行きは、ハタハタ(鰰)漁の取材に行くかもという話で聞いてはいた。ハタハタの話題はグラフ誌の季節もの企画として欠かせないもののようだったし、それに秋田(といってもだいぶ南の象潟)は中平さんの奥さんの実家があるところだったので、話のはずみで彼にお鉢が回ってきたらしかった。1967年も暮れに近くなってきた頃で、行き先は男鹿半島の付け根にある北浦漁港。そこで出漁する漁船に乗せてもらって撮影する手はずだと言っていた。

ただ漁は見通しが立たない。群れが来て漁場も港も活気づくところを撮りたいと思っていたようだから、東京を発つタイミングは地元の漁業組合から入ってくる約束の電話頼りだった。

原稿書きに費やしてほしい時期に秋田行とは、と私は心配した。中平さんも同じで、だから「急いで帰ってくるから。往復の電車の中で組み上げてくるから」と自分にも言い聞かせるようにしながら行くことを決めた。

中平さんは急いで逗子の家に戻り、冬の海の寒さに耐えられる服装に着替えてきて9時半頃に発つ夜行寝台特急「鳥海」に乗ることにした。

と言っても急なことだから寝台車の切符などとれない。

私は上野駅へ席取りの列に並ぶために先回りをした。ホームに新聞紙を敷き、そこに座って本を読んで待つ。発車2時間以上も前でまだ列車はホームには入ってきていないというのに、もう席取りの列は二重になって長い。座席を確保できるかどうかもあやしいものだった。

案の定寝台はおろか座席もだめだった。かろうじて通路に新聞紙を敷きそこに居場所を確保しておくのがやっとだった。

ホーム伝いに各車両の窓から中を覗いていた中平さんがようやく私を見つけると、「間に合ったね」と座席がないことに不満顔を見せるでもなく笑いながら言った。車内に入って中平さんに私は小声で「車掌に掛け合ってこようか」と言った。「頼んでみてよ」と彼も応えた。

私はホームに出て車掌室のある車両を探し、出発準備に忙しい車掌に事情を話してこの先の寝台車の席のキャンセルがあれば、と頼んだ。車掌は「とくに手だてはありませんが空いたらご案内しますから」と穏やかに言うだけだった。

私は車両を降りてホームを歩きながら、何とも言えない不快感に襲われた。車掌の言葉を思いだして、「とくに手だてを」と受け取られるような頼みかたをしたのか、と気分が悪くなった。

中平さんが床に座っている車両の窓から私が首をかしげると、彼も気配を察して「平気だ。ここの方がいいから」と言った。中平さんも同じような気持ちになっていたのかも知れない。

それ以来、中平さんも私も「PRESS」とか「報道」とか「○△社」の腕章を持たされても絶対に腕には巻かなくなった。

しかし何かの腕章をしていないと現場の仕切り線を越えさせてもくれないことが多い当時だったから、中平さんはどこで知ったのか、アメリカ西海岸で活動する「ニューズ・リール」というフリーカメラマンの互助組織を真似た組織を作ろうと言い始めた。つまり腕章、である。それから間をおかずに私は何本かの「ニューズ・リール・トーキョー」を略した「NRT」とプリントした腕章を、横山町の旗屋へ行ってつくってもらった。(やなぎもと・なおみ=写真家・東京造形大学名誉教授)(次号へつづく)
このエントリーをはてなブックマークに追加
柳本 尚規 氏の関連記事
中平卓馬をめぐる 50年目の日記のその他の記事
中平卓馬をめぐる 50年目の日記をもっと見る >
人生・生活 > エッセイ関連記事
エッセイの関連記事をもっと見る >