原子力時代における哲学 書評|國分 功一郎(晶文社 )|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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更新日:2020年1月18日 / 新聞掲載日:2020年1月17日(第3323号)

原子力時代における哲学 書評
ハイデガーが何を考えたのか、その思惟から何を学べるか

原子力時代における哲学
著 者:國分 功一郎
出版社:晶文社
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 原発は高コストで割に合わないことが示されていれば脱原発の政治的理由としては十分だろう。だが、コストだけで原子力の問題は尽きるだろうか(その場合、低コストなら原発もOKになる)。原発がまた事故を起こしたらどうなるのか。核廃棄物をどう処理してよいのかわからないままで。原子力の脅威は比較を絶する。にもかかわらず、人々を強く魅惑してもきた。一体どうなっているのか。哲学的に考えるべき事柄は多い――。近現代政治思想史を縦横に行き来しつつ、都道建設問題や保育行政などのアクチュアルな問題に寄り添って「来たるべき民主主義」を問うてきた著者が、原子力時代に哲学に何が言えるかを探るのが本書だ。

二〇一一年の福島第一原発事故の後、著者が何を感じ思ったのかが書き連ねられているわけではない。むしろ本書の中心テーマは、一九五〇年代に、現代を原子力時代と呼んだハイデガーが何を考えたのか、その思惟から私たちが何を学べるか、である。

しかしなぜ、政治的には評判の悪いハイデガーなのか。ロマンチックに回想される一九六〇年代の影に隠れた一九五〇年代は核兵器の「平和利用」が大々的に語られた時代だ。その頃、核兵器に反対する者も原子力技術自体には触れないか(G・アンダース)、むしろ平和利用に積極的に賛同していた(大江健三郎)。H・アーレントでさえ原子力技術に固有な問題を取り上げてはいない。その時期にハイデガーだけが、原発が世界中に作られようとしていること、途方もないエネルギーが地球上に蓄えられつつあることの異常さに目を向けた。平和利用のほうが核戦争よりも恐ろしいとまで言っていた。当時の政治的発言としては常識外れでリスキーだったはずだ。だが、ハイデガーは原子力について哲学的に思考したからこそ、世の中が何を言おうと先見の明をもって原発の恐ろしさを語れたのではないか――著者はここに原子力時代の「哲学」のありうる姿を見出そうとする。

ではハイデガーは何を言ったのか。ハイデガーは現代技術の批判者として有名だが、彼は、原始的な生活に戻れと呼びかけるような自然回帰主義者ではなかった。鍵となる「放下」の思想においては、技術に「然り」と「否」を同時に言えるという。技術品の避けがたい使用には「然り」と言い、しかしそれが私たちの本質を歪曲したり混乱させたり荒廃させたりすることには「否」と言える。技術品を拒絶してしまえば、この重大な「否」を言うことができないし、人間の本質にかかわる重大な「否」を言うには技術品の使用に「然り」と言わねばならない、ということだろう。原発にあてはめて考えればよくわかるように、なんとも危うい橋を渡ろうとする思考だ。

では、いつ私たちはついに「否」と言うべきなのか。ハイデガーははっきりと指針を示さない。その代わり、こんなことを言う。技術的世界の意味は自己を隠すものであり、私たちには「秘密=謎に向けての開け」が必要だ。そのとき、過去への回帰でも現状の肯定でも未来の夢物語でもない「来るべき土着性」の展望が開かれる―― 。

いかにもハイデガー的な語り口に苛立つ人もいるだろう。しかし、著者は、誰もが従うことのできるドクトリンは各自が自分で考えることを妨げうること、むしろ哲学が考えることである限り、基準や指針を示すのとは異なる語り方がかえって必要であることに注意を促す。ハイデガーは放下の思想を論文ではなく対話編で提示した。読み手に自分の主張を提示するのではなく、読み手自身が思惟の運動に巻き込まれる好機を作り出すスタイルだ。著者はハイデガーが対話編を採用したことの意義を強調する。ハイデガーによって、原子力の問題はたしかに重苦しく謎めいたものとして、思惟の課題として読み手にのしかかってくる。

著者は、原子力を哲学的に思惟するという課題をハイデガーから引き受けた後、しかしハイデガーが問うていない問題として「なぜ我々は原発に惹かれるのか」を本書の最後で探求してもいる。原発さえあれば、いつか枯渇してしまう石油のような資源に頼る必要もないし、資源をもつ別の国に依存する必要もなくなる。太陽からの贈与さえいらない。原子力信仰の根源とは、完全に孤立しても生きていける自立・独立への欲望だ。この部分の論述は短いが、「贈与を受けない生」への欲望という論点は今後の展開可能性を十分に感じさせてくれる。

原発について哲学者として何か言わなければ――。二〇一一年の原発事故の直後には、哲学に関わる多くの人たちが語りにくさの苦しみのなかで発言に逡巡していたが、今は時折思い出したように語るだけになった。二〇一三年に行われた一連の講演をもとにした本書はそれから六年経ってようやく出版された。脱原発の政治的課題と歩みを同じくできないかもしれないという不安があったこと、今でも出版には逡巡が残ること、しかし、哲学は哲学として語らねばならないことを著者は率直に認める。どんなに政治的に正しい理屈であっても、誰もが同じ主張を繰り返す状況であれば、仮に脱原発が成功したとしても(まるで誰もが核の平和利用を語っていたときのように)「思惟からの逃走」が起こっているかもしれない。原発は不要だという点について著者にブレはないが、思考停止は哲学の死であり、哲学的思考は時間がかかる。本書は、哲学の厳しさと危うさを引き受けつつ、一九五〇年代から二〇一九年へと思惟の力を受け継ぎながら、「原子力の時代の哲学」の不在を、今、私たちに問い、その一歩を示してみせた。少なからぬ哲学者をどうしても応答しなくてはならないという気持ちにさせることは間違いない。私自身は、これもまた國分氏に触発されて、ということになるが、都道建設問題や街づくりを論じた『来るべき民主主義』(幻冬舎)や『僕らの社会主義』(ちくま新書)の内容や提案を「来るべき土着性」の具体的なイメージにつなげられないかを考えたいと思っている。
この記事の中でご紹介した本
原子力時代における哲学/晶文社
原子力時代における哲学
著 者:國分 功一郎
出版社:晶文社
以下のオンライン書店でご購入できます
「原子力時代における哲学」出版社のホームページはこちら
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